「借り暮らしのアリエッティ」 小人族の気高さはありうべき日本人の姿だったのではないのか

昨年(2010年)のジブリ作品「借り暮らしのアリエッティ」を観た。

この作品において、宮崎駿さんは企画・脚本を担当、監督は米林宏昌さん。米林さんにとっては、この「借り暮らしのアリエッティ」が最初の長編アニメ監督である。
しかし、いわゆる「新人監督」と言っても、1973年生れ、既に30歳台後半だ。この業界で監督となるのにはやはり、このくらい年季をつまないとならないのだろうか。きびしい世界である。

さて、このアニメの内容について話を進める。
舞台は、東京の近郊。宮崎駿さんによると、小金井あたりの設定ということらしい、僕の家の近くだ。ご存知の通り、東京近郊には、意外にまだまだ緑が沢山ある。国木田独歩が「武蔵野」で描いたような小さな森が大きな屋敷の中にはまだ残っているのである。
歴史的に言えば、その昔、このあたり(三鷹、小金井、田無)は、徳川将軍家のお鷹狩りの土地であり、そのため、適度に森を残すことが人為的になされたという。また、江戸に近い天領ということもあってか、比較的徴税は厳しくなかったらしく、それゆえに、現在でも当時の名残の農家や明治以降に建てられた広い洋館が点在しているのだ。

このアニメは、そんな屋敷に住み着いている小人族の少女・アリエッティと、その屋敷に静養に来ている一人の少年・翔とのふれあいの物語である。
ただし、ふれあいと言っても、のんきな話ではない。二人には、それぞれが抱える残酷な宿命があったのだ。

実は、アリエッティには、人間に見られた時点で、もうその場所を離れなければならないという小人族の「掟」がある。
したがって、少年とふれあうということは、即、別れなければならないということを意味していた。しかも、この種族は、段々少なくなっている、いわゆる「滅びの種族」なのである。

一方、少年の方は、心臓が悪く、目前に手術を控えている。もしかしたら、余命も長くないのかもしれないのだ。しかも、この少年は両親が離婚、ひきとった母親は、仕事が忙しく、家を空けがちだという。彼は、病気の上に、両親からの愛を十分に受けたとは言いがたい環境に育つ。寂しい少年なのである。

滅び行く種族の少女と、余命いくばくもない少年の出会い。
少年はなんとかして、少女やその一家(両親)を守ろうとするのだが、彼の善意はことごとく、裏目に出てしまい、結局は二人の運命を引き裂いてしまう。
例えば、少年の曽祖父が、いつかこの家に住み着いている(と思われていた)小人のためにとイギリスから取り寄せたドールハウスを、床下の家にプレゼントしようとするのだが、その行為は、小人にとっては、残念ながら迷惑な暴力でしかなかったのだ。

異なった力や価値観を持った種族は、いかに共存していくべきか、そんな問いを投げかけてくれるのがこのアニメである。
一般的には、日本人が、日本列島に住む大和民族以外の人々(アイヌや朝鮮民族)に対して、どのように接してきたのか、あるいは接するべきなのかというような問いかけに読み替えることが出来るのだと思う。あるいは、人間とその近郊の自然との関わりの物語というように解釈することも出来るかもしれない。それは人それぞれだろう。

そして、もしそういった文脈で読むのであれば、それは、僕らが何をすべきか、ということではなく、何をしないべきなのかという倫理こそ、このアニメが僕らに提起していることである。

実は、僕は子供の頃、東京の中野の一軒家に住んでいた。家には、庭があって、沢山の小動物がいた。毎年、春頃になると床下から大きな蝦蟇蛙が這い出してきた。僕はその蝦蟇蛙を捕まえようとした。しかし、祖母にしかられた。
「あれは、この家の主だ。だから決して手を出してはいけない。」
毎年そのように言われ続けて僕は大きくなった。
家の近くには在日朝鮮人が何人も住んでいた。家の裏に路地があり、そこでは回覧板を回したいたのだが、その家にだけはその回覧板は行くことはなかった。
僕は子供ながらに不思議に思い、そのことを祖母に聞くと、「朝鮮人だからだ。」と言った。

そんなことを、このアニメを観ていて思い出した。
思い出すといえば、アリエッティ=小人=コロボックル伝説の話に関しても、僕は昔から気になっている。
水木しげる先生の「日本妖怪大全集」のコロボックルの項にはこのように書かれている。

妖怪と行っても小人であり、なんのいたずらも悪さもしない。おとなしいものである。「コロボックル」とはアイヌ語で”蕗(ふき)の下に住む人”という意味だ。
「コロボックル」はたいへん気だてのよい連中で、はだかで生活をしていたとか、アイヌの近くに集落をつくって、入れ墨をアイヌに教えたとかいわれているが、とにかく”小さい人”であったようである。
(中略)
アイヌの人々と仲よく暮していたが、あるとき、アイヌの中に悪ふざけをしたものがいて、怒って北の海に姿を消してしまったという。
(中略)
要するに、「コロボックル」はアイヌが北海道にくる以前に、北海道にすんでいた種族らしい。

また、村上健司氏の「妖怪事典」によると、コロボックルが土地を去るときの呪いの捨て台詞「トカップチ(水は枯れろ、魚は腐れ)」が十勝の地名の由来だという。
なるほど。
北海道から、さらに北の海に行ってしまったという小人族というのは、なんとも、ロマンチックな存在だ。樺太とか千島とかに行ってしまったのだろうか。
現在、マイナーとなってしまったアイヌ民族は、大和民族に押され、独自のアイデンティティも危うくなっていると聞くが、そのアイヌ民族も、さらに歴史をさかのぼれば、コロボックル達を追い出していたのかもしれない。歴史の因果というのは面白くも恐ろしいものである。

さて、話を「借り暮らしのアリエッティ」に戻す。
先ほど、僕は、この物語を普通に読めば、僕ら日本人が少数民族に対してどのように接するべきなのかを提起しているというようなことを話したが、実は、このアニメの面白いところは、それだけではない。
気高い小人族の生き方こそ、ありうべき日本人の姿だったのではないのか」というもう一つのテーマを持っているということある。このアニメの「小人と人間、どちらが滅び行く種族なのだろうか」という衝撃的なキャッチコピーもそのテーマと関係しているのだ。

例えば、アリエッティの小人族は、「人間に見られたら、引越しをしなければならない」という掟がある。それは、アリエッティが、ここでどうこう言ったとしてもどうにでもなるものではない。だから、彼女は無言でその掟にしたがう。しかし、ここで、もし、アリエッティが、「いや、翔という少年はいい人だ。だから、これからの小人族は、人間に保護されて生きていくことの方が、楽な生存戦略としては有効ではないか」というような提案をし、両親を説得し、そうなったとしよう。

勿論、それはあくまでも、仮定の話だ。

というのも、この話には、スピラーという孤独な狩猟系小人が登場する。彼は顔に入れ墨を入れている。そして、人付き合いもそれほど得意ではないように見える。もしかしたら小人族というのは、もともとはこのように人間に関わらないように自然の中で狩猟をしていた民族ではなかったのか。
スピラーの存在は、そんな、小人族の起源をも、僕に想像させるのである。
そして、そんな種族の中で、進歩的な小人が、人間の近くに住み、人間の文化の「おこぼれ」をあずかって生きるという生き方を見出したのではないだろうか。
それに連れて、昔は人間に近寄るなという掟だったものが、そういったライフスタイルの変化に応じて、人間の近くに住んでもいいが、決して人間に姿を見られるなという掟に変ったのではないだろうか。
掟というのは永遠に普遍なものではなく、変りうるものだと思うのである。実際、僕ら日本人にしても、古代の掟、いや近世の掟すら、もう忘れてしまっているではないか。

そのように考えると、僕の想像もありうべき一つの仮定としては、アリなのではないだろうか。

そして、もしそうなったとしたら、アリエッティの家族は、翔と一緒に楽しい日々を過ごすようになっていたかもしれない。
翔の善意溢れる優しさの下で、安全安心、住居も食事も与えられ、何不自由の無い生活が始まるにちがいない。
勿論、その代わりに、移動の自由は失われ、それまで、代々培ってきたであろう自給自足や自衛のノウハウは段々不要となり忘れていくが、それでも、翔に依存していけば、何も考えなくて暮していけるにちがいないのだ。

このように想像してみると、どうだろうか、この姿、どこかで見たことがあるではないか。
実は、これこそ、現代の僕らの姿とどこか酷似してはいないだろうか、というのが僕の問題意識である。

近代以前の、日本人は、ほとんど自給自足の生活をしていた。村々の共同体は、自然と戦いながらも、自立した生活をしていた。
勿論、それは過酷な状況であることは確かであるが、人々は代々受け継いできた知恵や知識と共同体の絆で乗り越え、なんとか生き延びてきたのである。
しかし、明治維新以降、近代化以降、あるいは貨幣経済が農村に浸透してきて以降、人々は、徐々に大きなシステム(つまり国家)に取り込まれていく。
さらに、戦後の経済成長は、そういった動きを加速させた。僕らはいつの間にか、自給自足のノウハウを失い、国や地方自治体、流通システム、電力会社、医療機関等のシステムに依存しないと存続していけないようになってしまったのだ。
さらに、大局的に見て、日本という国で考えても、アメリカという大国に依存しないと存在すら危うい状況となってしまっているのは論を待たないところである。

勿論、それによって、僕らは、平均寿命が延び、平和で、便利な生活を享受できるようになった。それはそれで素晴らしいことである。
しかし、僕らはその対価として多くのものを失ってしまったのである。

そんな現代の僕らが自明としている社会生活のアンチテーゼとして、あるいは、有り得たかもしれないもう一つの姿として、アリエッティ一家を見直すことも可能なのではないだろうか。

しかし、アリエッティの話は、僕が仮定した方向には進まなかった。小人達は当然のように、掟を守り、新しい土地を求め、旅にでた。
それが、もしかしたら、滅びの道だったとしても、彼らは気高く生きる道を選んだのである。まるで、アイヌの元を去って、北の海に消えたコロボックルのように。

そして、翔は、アリエッティの旅立ちをただ見送ることしかできなかった。
決して、「僕がなんとかするから、行かないでくれ」とは言わなかったし、言えなかった。
それはおそらく、翔自身、余命いくばくもないことを自身で悟っていたからだろう。翔は自分が責任を持ってアリエッティを引き止めることが出来なかったのだ。

さて、物語の中盤で、翔がアリエッティに対して、唐突に、「これまでも多くの生き物が絶滅してきた。残酷だけど君たちは滅び行く種族なんだよ。」と言う場面があった。
しかし、彼の心の中では、その言葉は唐突ではなかったのだと僕は思う。何故ならば、彼自身、若いのに、常に自分は死ぬ存在(「滅び行く」存在)だということを考え続けているからである。
おそらく、それと同じ理由で、彼は去り行くアリエッティを引き止めることが出来なかったと思うのである。

現代日本社会に生きる僕らに出来ることは、せめて小人族の気高い自由の精神を心の中の観念として受け止めることだけなのだろうか。翔が別れ際に、アリエッティに言った「君のおかげで生きる勇気が湧いてきた」「君は僕の心臓の一部だ」という言葉を僕はそのように受け取らざるを得ない。

システムに依存してしか生きられない「大きな」現代日本人、それに対して、自分達の力で生きていこうとする「小さな」小人。どちらが生き延びることが出来るのか。その答えは決して、一筋縄ではいかない。

まさむね

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