K’s cinemaで『脱脱脱脱17』という映画を観てきた。というか、映画であって映画ではないなにか凄いものに遭遇してきたと言った方が正確かもしれない。
この作品は、映画界のホープ松本花奈監督の最新作だ。映画であって映画ではないなにか凄いものというのは、この映画が、映画という形式をとった作品である以上に、松本監督の内面そのものではないのか?と僕には思われたからである。
フィルムに映された映像を観たというよりも、映画自体が一体のもがき苦しむ「化け物」を観ているような感覚といった方がいいのかもしれない。57歳になってこんな体験は初めてである。おそらく、この映画を観た誰しもが、この映画について何を語ったらいいのかわからないまま、しかし、得体のしれない「化け物」に遭遇した体験をなんとか、言葉として吐き出したくなる、そんな映画であった。
だから、僕は、この『脱脱脱脱17』の具体的な内容について語ろうとは思わない。僕はより多くの人にこの作品を観てほしい。「化け物」は本当に遭遇してこそ「化け物」だからである。
「地獄で何故悪い」の予告編から始まって、「いちぬけた」PV、「真っ赤なポピー」「真夏の夢」。松本花奈監督の作品のテーマは、一言で言えば”親子の葛藤”である。これほど、一徹に一つのテーマを追い続ける彼女のことを、僕らは「高校3年生にして既に、作家性を帯びた映像監督」と言わざるを得ないだろう。脚本や映像、編集など技術を超えたところにある彼女の作品の魅力はそういった彼女の一徹さにあると僕は思う。もしかしたら、彼女における子役としての半生がそういったテーマと深く関係しているのかもしれないが、これ以上の邪推は止めておこう。
本日の上映後の舞台挨拶で、松本花奈監督は「この作品を作ったことによって私は変わりました。」という主旨の言葉を述べていた。そして、「『真夏の夢』でやり残したことをこの作品で出来ました。」ということも語っていた。確かに、『真夏の夢』も傑作であった。しかし、意地悪な言い方をすれば、”親子の葛藤”の結末はそのまま残された作品でもあった。しかし、『脱脱脱脱17』では見事にその葛藤に決着をつけた。荒々しいまでに、もがき苦しみながら、出口を必死に探すノブオとリカコの姿は松本監督自身である。そして、この物語は彼女のイニシエーション劇そのものであると僕は観た。その証拠に映画の文法を無視しまくって突っ走る怒涛の展開は、まるで、なりふり構わず脱皮しようとする大蛇を観ているかのようでもあったのだから。
ある意味で、自己表現の極北に位置するこの作品ではあるが、それが、観客の心をここまでわ鷲掴みにする鑑賞品としても立派に成立しているところに、松本監督の天才がある。おそらく、彼女の異常で強引な一徹さのパワーが自己表現と鑑賞品をあやういバランスで両立させているのだ。この日本のどこに彼女ほど、苦しみながら大人になろうとするような少女が存在するのであろうか。この作品に奇跡があるとするならば、その「苦悩そのものの奇跡」である。
そして、あえて付け加えるとするならば、同時に、その苦悩を映画にしようとするその「意志の強さという名の奇跡」なのかもしれない。
さて、本日、僕が幸運にもインターナショナルバージョンの日本上映最後の日に観ることが出来たこの作品は108分であったが、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭に提出された時は165分あったという。大笑いだ。しかし、この作品は現在、108分よりもさらにシェープアップして夏に戻ってくるらしい。その時、「化け物」がどんな姿になっているのだろうか。とても楽しみだ。
そして、さらに楽しみなのは、『脱脱脱脱17』によって脱皮して大人になった松本監督が、大人としての処女作として、次はどんな作品を作るのだろうかということである。おそらく、しばらくは目が離せないというのは、この「化け物」と遭遇した全員の気持ちである。