以前から妻に勧められていた「デスノート」の第一部(全26話)をようやく観た[1]。
実は、ずっと「何だか難しそう」な気がして敬遠していたのであるが、ここのところ気分が乗っていたので一気に観てしまおうと思い、およそ一日で観てしまった。
とにかく、凄い作品だ。シナリオの練られ方は、おそらく、今まで観たアニメ(映画も含めて)の中でもトップクラスと言っても過言ではない。
さすがに、原作のコミックが世界累計発行部数は3000万部を突破しているだけのことはある。この緻密なシナリオは、これぞ世界に出しても恥ずかしくない日本コンテンツであることは間違いない。
簡単に言えば、このアニメは「名前を書いたら、その人物が死ぬ」というデスノートを巡る話である。
勿論、このルール以外にも、いくつか他に重要なルールがあるのだが、基本的には、この「デスノートに名前を書いたら、その人物が死ぬ」という単純な設定さえ飲み込めれば、この作品は楽しく観ることができると思う。
僕は、このアニメが日本で作られ、世界中で大ヒットした背景には、名前を書くと相手が死ぬという発想の根底に、古代には世界中に「相手の名前を知ることは相手を支配することと同等の意味を持つ」という宗教観念が存在していたのではないかということを考えている。
そして日本は辺境の島国ゆえに、そういった古代からの観念が他の地域よりも強く残り、それが日本発の大ヒットアニメを生み出した底流にあったのではないだろうかということなのである。
例えば、万葉集の巻一第一歌には、雄略天皇(第21代)が草を摘んでいる少女の名前を尋ねるという内容の歌が掲載されているが、この歌は、まさに相手の名前を知ることによって、相手を支配しようとする(自分の女にしようとする)歌である。そして、この観念が、近年、地下水脈からアニメというメディアを通して湧き水のように出てきたのが「千と千尋の神隠し」であり、この「デスノート」ではないかと想像しているのだ。
ご存知の通り、「千と千尋の神隠し」では、異界に迷い込んだ千尋という少女が、強引な契約によって油屋の支配人・湯婆婆に名前を奪われて、千と名付けられることによって、奴隷として働かされる物語であるが、ここで、千尋が湯婆婆との労働契約書にサインした時に、本来ならば「荻野千尋」と書くところを、荻の字の”火”を”犬”と書く。つまりそこに偽名を書くのであるが、ここは、湯婆婆からの支配を完全なものにしたくないという千尋の無意識が働いたとも考えられる。あるいは、結局、千尋が元の世界に戻ってこれたのは、この”火”→”犬”という偽申告があったから、という深読みも可能なのである。
ちなみに、この「本当の名前を知られることによって相手に支配されることに対する恐れ」という宗教観念が、まだどこかで生きているがゆえに、日本では実名登録前提のSNS・Facebookがいま一つビビッドにブレイクしていないことの一因になっているのではないだろうか。いまだに、YahooがGoogleよりも利用者数が多かったり、2chという匿名サイトが膨大なアクセス数を誇っているというようなこともそうであるが、インターネットという最新技術が、逆に、今まで隠されてきた民族のユニークさをあぶり出してくるような現象は、誠に興味深い。
さて、この「デスノート」であるが、評論家の宇野常寛氏は著書『ゼロ年代の想像力』の中で、バトルロワイヤル系作品の代表作に上げていた。このバトルロワイヤル系というのは、90年代まではセカイ系という、現実的な選択にコミットせずに甘美な観念的コクーン(繭)の中で私小説的な自意識を弄ぶタイプの作品群が後退し、バブル崩壊、金融ビックバン、平成不況、市場原理主義(成果主義)的価値観の興隆という時勢を背景として出てきた、苛烈でサヴァイブ感を前面に出すような作品群を指す概念である。
確かに、この「デスノート」における二人の主人公・夜神月(やがみらいと)、L(エル)、両者とも、目的のためには手段を選ばないタイプの合理主義者だ。それはゼロ年代初頭の一時期に脚光を浴びたIT長者や株式のトレーダーのイメージなどをも髣髴させる。
平和な世界を実現し、その世界での「神」になるという野望のために、デスノートによって重犯罪者をこの世から次々と抹殺していく月(らいと)と、犯人を逮捕するためには、拷問スレスレの取調べや、人権を無視した強制捜査を厭わないL(エル)の二人の合理主義的な価値観はまるでコインの裏と表のように良く似ている。
彼らは、古くは60年代の鉄腕アトムから、80年代のラピュタやナウシカ、90年代の「エヴァ」のシンジを経由して、最近のアニメ(「魔法少女まどか☆マギカ」「輪るピングドラム」「輪廻のラグランジェ」など)まで、連綿と続く家族や友人といった身近な他者のためには命を賭すことも恐れない登場人物達とは全く異なった行動原理で動いている。二人とも、人間関係に縛られて「空気」とやらが漫然と支配するような日本独自の村社会的価値観から超越した存在なのである。
さらに、崇高な目的を抱く超越的な存在という意味では、「コードギアス」のルルーシュや「Fate/Zero」の衛宮切嗣(セイバーのマスター)にも似ているように見えるが、そのルルーシュや切嗣にしても、プライオリティ最上位は、結局は肉親の幸せであるということを考え合わせれば、月(らいと)とL(エル)の行動原理の方が、より冷酷で合目的的のように思われる。
さて、この「デスノート」の最大の見せ場は、L(エル)の名前をゲットして、デスノートに書き込むことによってL(エル)を抹殺しようとする月(らいと)と、月(らいと)を真犯人として逮捕しようとするL(エル)との間の、見ているだけで心臓がキリキリ痛むような心理戦である。二人は出来る限りの合理的推理を重ねて相手を追い詰めていく。
二人の判断は、決して天才的(超越的)な勘によって行われるわけではなく、ゆっくりと考えれば誰でもがたどり着けるようなロジックに添って行われる。それは、今クールに放送中の日曜劇場「ATARU」におけるアタルや、かつての古畑仁三郎が初動時に発動する神がかり的な勘とは無縁の合理性である。
彼ら二人の推理ロジックの根拠は、「人間というものは必ず合理的に動くはずだ」という地道な前提なのである。それは彼らの人間観と言ってもいい。おそらく、この人間観のわかりやすさ、すなわち合理性こそ、「デスノート」が日本だけでなく、世界的にも大人気となった大きな要因である。もしかしたら、今後の日本のアニメが、”日本大好き市場”の枠を超えて、より広い市場にインパクトを残すためのヒントがここにあるかもしれない。
しかし、先ほども述べたが、この作品に流れる人間観は、自分の命を賭して他人を助けるというような日本アニメ的な超合理的な行動原理と相反している。勿論、その日本的行動原理に縛られたアニメの魅力も捨てがたいのではあるが、僕は、この「デスノート」の合理性もユニークさとして評価したいと考えている。
それがゆえに、最後の最後(25話)の月(らいと)がL(エル)を殺すという一番大事な局面において、月(らいと)が、その確信的予測の最後の1ピースに日本アニメ的な行動を持ってきてしまうという、その不徹底さ、つまり、具体的に言えば、月(らいと)が、「弥海砂(あまねみさ)を愛する死神のレムが、L(エル)に逮捕されるのを阻止するために、自分が死ぬことを承知で、L(エル)を殺すに違いない」という、天才的(跳躍的)な推理をしてしまうその一瞬を、ただの無自覚な不徹底として捉えるべきなのか、あるいは、この作品も日本のアニメなのだというメタメッセージと捉えるべきなのか、という疑問的悩みを抱いてしまうのであった。
まさむね
[1]なので、上記の文章は第二部以降では覆されて、全然、意味をなさなくなる、あるいは間違っていたということもありえることはご承知下さい。
この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。