「マクロスFRONTIER」 早乙女アルトは何故、女形でなければならないのか

TV版「マクロスFRONTIER」全25話を観た。
ご存知の通り、マクロスはこの作品以外にも、TVアニメ「超時空要塞マクロス」(1982年~1983年)、劇場版「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」(1984年)、OVA「超時空要塞マクロス Flash Back 2012」(1987年)、TVアニメ「マクロス7」(1994年~1995年)、劇場版「マクロス7 銀河がオレを呼んでいる!」(1995年)、OVA「マクロス ダイナマイト7」(全4話、1997年)、劇場版「マクロスF 虚空歌姫〜イツワリノウタヒメ~」(2009年)、劇場版「マクロスF 恋離飛翼~サヨナラノツバサ~」(2011年)などの映像作品がある。
さらに、映像の他、漫画、小説、ラジオドラマなどの作品もあり、それらは総称してマクロスシリーズと呼ばれている。

僕はその中のほんの一部に触れただけなので、大きなことは言えないが、この「マクロスFRONTIER」を観た限り、さすが、日本を代表するSFロボットアニメだけのことはあると思った。
とにかく、その映像(3DCG)の迫力と美しさは圧巻なのである。しかも、ミュージックと戦闘シーンが必然的に結びつくという設定のオリジナリティには、よく、ここまで考えたなぁと思わず頭が下る。

物語は、2059年。その舞台となるのはマクロス・フロンティアと呼ばれる宇宙移民船団。人類は、地球を出て安住の地を求めて銀河の中心に向けて旅をしている。ちなみに、このマクロス・フロンティアは、科学によって管理された閉じられた生態系となっていて、人々は文化的な生活を営んでいる。ただし、その空間は謎の異星生命体である外部の敵(バジュラ)によって脅かされており、軍隊やSMSという民間軍事プロバイダーは、常にそのバジュラとの苛烈な戦闘を繰り広げているのだ。

物語は、このマクロス・フロンティアに住む少年少女の人間関係と、バジュラとの戦いという二つの軸が交差しながら進行していく。
少年少女の日常生活と、人類の存亡を賭けた闘いがリンクしていくという意味で言えば、このアニメはセカイ系という解釈も可能であり、最終的には、異星生命体・バジュラが持つ特別なコミュニケーション方法を活用して、全宇宙を一つの意識化のもとに統合しようとする野望が敗れ去り、「個体が別々の意志を持ち、時として誤解が生じたりもするが、それがゆえに恋は素晴らしい」というような思想が生き残る展開に注視するならば、あの「新世紀エヴァンゲリオン」における「人類補完計画」宇宙版の敗北物語とも言えるのである。

その意味で言えば、このアニメは「ビューティフルドリーマー」から「火垂の墓」「新世紀エヴァンゲリオン」「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」「妄想代理人」「カオスヘッド」などと同様に”甘美な幻想が負けて厳しい現実が勝利する”アニメの王道的系譜にある作品なのだ。

ところが、この「マクロスFRONTIER」では、思想的には先に述べたように現実の厳しさが勝っていたとしても、具体的には、この物語の大きな柱である男女の三角関係(男一人と女二人)における厳しいは対立は回避され、結論は先送りされてしまう。
もっとも、三角関係にある種の決着をつけるということが、ここまで育ててきた商品としてのキャラ達にそれなりの傷を負わせてしまうことは想像に難くないし、先に劇場版が控えているという大人の事情も斟酌すべきなのだろうが、僕ら視聴者が全25話という、それなりに長い道のりを経た挙句に待っていたのが結論の先送りというのでは、いささかがっかりしたと言わざるを得ない。
石田純一の「不倫は文化」という言葉で反射的に思い浮かぶような古今東西の名作、例えば、「源氏物語」「アンナカレーニナ」「ボヴァリー夫人」、そして夏目漱石の一連の作品と、この「マクロスFRONTIER」とを人間描写という土俵で比較しようとするのはちょっと荷が重かったというべきなのであろうか。

いや、しかし、そのように言い切ってしまう前に、このアニメ、そして主人公の早乙女アルトについて、もう少し考えてみたいというのが、実は、本エントリーの主旨なのである。

それは、主人公の早乙女アルトが、元々歌舞伎役者の家に生まれた女形であったということを、敢えて伏線として捉え、彼は元々、彼ではなく、彼女であったという深読みも可能ではないかと考えられるからである。
しかも早乙女アルトが劇中において何度が吐いている「思わざれば花なり。思えば花ならざりき。」(自然に演技することが重要。意識してしまうと面白くなくなる:まさむね現代語訳)というような世阿弥の花伝書を意識したような言葉を、強引にかぶせて解釈してみるならば、彼の恋愛場面における不器用な立ち振る舞いこそは、自然な振る舞いなのだ、というメタメッセージにも取れなくないからである。

さらに、彼が、子供の頃から天才的な女形であったにもかかわらず、父親から勘当されてまで役者としての道を捨てた理由が、建前的には、亡くなった母親が持っていた大空への憧れというだけでは、あまりにも表面的ではないのか。
おそらく、彼の女形としての自分に対する嫌悪は、素においても女であることに対する、つまり、心のどこかに存在する女性性に対する嫌悪と密接に結びついているのではないかというのが僕の仮説である。
それゆえに、彼が意志的に男性であろうとした時に選択した職業が軍人なのであり、その精神はどこか、あの三島由紀夫の趣味にも通じている。
また、その一方で、長髪を捨てきれなかったり、イヤリングをすることに抵抗がなかったりと、彼が無意識的に選択してしまっている女性的なファッションと、そのくせ女性と見間違われたり、友人からからかい半分にアルト姫と呼ばれることに対して極度に反発するような幼稚な仕草の矛盾的並存にこそ、彼の一筋縄ではいかない複雑な内面が表われている。

普通に、視聴者に媚びて、同一化を求めるキャラであれば、シンジ(「新世紀エヴァンゲリオン」)のような情けない少年や、オカリン(「シュタインズゲート」)のようなオタク、あるいはルルーシュ(「コードギアス」)のような貴種の奥手にしておいけばいいものの、敢えて、複雑に設定された早乙女アルトをどう読むのか?これが、商品であるがゆえに文学への道を歩めなかったこのアニメに、文学とは別の方向での奥深さを与える一つの設問ではないかと僕は思うのであった。

まさむね

この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

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