2008年に放映された『カオス;ヘッド -CHAOS;HEAD-』を観た。
この作品は、アドベンチャーゲームとして発売された同名作のアニメ版で、位置づけとしては、『STEINS;GATE(シュタインズ・ゲート)』の前作であり、その舞台は、秋葉原(シュタインズゲートの舞台)とは、対極的な街・渋谷となっているところが大きな特徴である。
図式的に言えば、渋谷は秋葉原の住人(オタク)にとっては完全なアウェーだ。
『カオス;ヘッド -CHAOS;HEAD-』は、そんなアウェーの地で、世間に蔑まされながら、オタクであり続ける男(西條拓巳:以下、TAKUと略す)を主人公にした美少女+妄想科学のアニメ作品なのである。
最後に渋谷の街は、人工的な地震によって廃墟になるのであるが、これは、「オタクのルサンチマンが、妄想上でアウェーの地・渋谷に勝利した!」というように解釈出来なくもない。潜在的に、ある種のカタルシスをターゲットユーザーにもたらしているのは確かなように思われる。
そしておそらく主人公のTAKUもこのカタルシスを共有している。というのも、この壮絶なシーンにおいて、TAKUは渋谷の破壊については、一瞬たりとも、悲嘆にくれたりはしないからだ。2万人以上が亡くなるような大地震後の廃墟の真っ只中ですら、彼は個人的な悩みに囚われ続け、その街の破壊に関してはまったく嘆く素振りも見せないのである。
そういえば、僕はこのアニメの演出でひとつ気になるシーンがあった。第7話(自覚 realization)で、TAKUは三人組に暴行を受けるのであるが、この三人が、いわゆるDQNのイメージからかけ離れた、ごく普通の大学生風のキャラデザインになっているのである。これは、例えば「俺たちに翼はない」に登場するチーマー達のいかにもそれらしい外見(右画)と比較すると顕著である。
あるいは、これも第7話中の話であるが、TAKUの唯一の男友達であった同級生の大輔は、TAKUがクラスでイジメに遭うと、簡単にTAKUを無視してしまう。
僕はここに、このアニメにおける潜在的な想定敵が、不良(=悪)ではなく、普通の世間(=リア充)であるというメッセージを読み取る。このアニメに流れる価値観は、勧善懲悪や正義ではなく、反世間(反リア充)なのである。そして、この価値観は、同時にTAKUが渋谷の街の破壊に無関心なところとも通底していると思うのであった。
しかし、『カオス;ヘッド -CHAOS;HEAD-』は、一方でそういったTAKUが体現する価値観を維持しながら、他方で、与党政治家や宗教団体教祖、マッドサイエンティックな大企業グループの総帥(野呂瀬玄一)といったベタな黒幕的悪役を登場させ、TAKUとそれらの巨悪との戦いに物語を誘導する。しかし、これは、表面的にわかりやすい敵を登場させることによって、本来の敵を周到に隠蔽するための演出ではないのか?というのが僕の邪推である。
例えば、最終的に、TAKUは野呂瀬玄一を倒し、「ノアⅡ」という世界の人々の心を支配出来るような機械を破壊するのであるが、それは見方を変えれば、今ある社会を誰か一人が思い描く理想郷にしようとする、いわゆる理想主義に対して、様々な問題があったとしても現実を肯定する生き方を選択したということという文脈に置かれる。
以下、TAKUと野呂瀬との言い争いから引用してみよう。
野呂瀬:この腐った社会を再生するためには、社会のシステムを変えるのではなく、世界中の人間の心を変える必要があるのだと。「ノアⅡ」があれば、世界中全ての人間から負の妄想を消し去り、清廉な心へと漂白できます。争いは消え、世界に永遠の平和を与えることが出来る。君も誰かに蔑まれることもなくなるでしょう。
TAKU:アンタの言っていることはもしかしたら、正しいかもしれない。でも、それはアンタの自己満足だ。
しかし、この物語では、確かにTAKUが勝ち、現実が勝利するのだが、にもかかわらず、その現実とは、TAKUの手にはディソードという幻想の剣を持たせ、しかも、美少女達に囲まれるという一種ハーレム的な「あり得ない現実」なのであった。
この戦いの地におもむく直前に、二次元的存在を三次元化した存在であるフィギュアのSEIRAを見捨てるシーンが出てくるが、それは、進歩でも成長でもない。TAKUが選んだのは、SEIRAと同次元上に存在する別の女性(RIMI)である。何故ならばTAKUにとって、RIMIとは三次元的存在を二次元化した都合のいい存在に過ぎないからである。
さて、話は変るが、80年代以来、多くのアニメには、理想的な幻想VS辛い現実のどちらを選択すべきかというテーマが存在していた。
「BeautifulDreamer」における夢邪鬼VSアタルの戦い、「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」における「イエスタディワンスモア」VSしんちゃんの戦い、「妄想代理人」におけるマロミVS猪狩の戦い...そして「エヴァ」におけるゲンドウVSシンジの戦いもそうであった。
そして、基本的には、辛い現実の方が勝利するというのがいわゆる”お約束”でもあった。だから、その”お約束”にのっとって理想的な幻想を選択した「火垂の墓」の姉妹は死を迎えてしまうだ。
しかし、この『カオス;ヘッド -CHAOS;HEAD-』は、表面的には辛い現実が勝利するにも関わらず、実は勝利したのは別の甘美な幻想に過ぎない。
これを「甘い!」と批判するか、「ユニークだ!」と評価するかは意見が分かれるところだとは思うが、最後、破壊された瓦礫の山の中で、本来はTAKUを殺すべきメインヒロインのRIMIにキスされ、赦されるシーンは、例えば、「エヴァ」において、世界にたった二人で残ってしまったアスカに「気持ち悪い」と罵られるシンジの惨めな姿に比べるべくもなく、幸福に見えることだけは確かである。
まさむね
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