2010年2月公開の劇場アニメ「涼宮ハルヒの消失」を観た。
この作品は、テレビシリーズ「涼宮ハルヒの憂鬱」の集大成的な位置付けとも言える作品である。
テレビシリーズにおいては涼宮ハルヒに光があてた展開で、全体的なトーンは「明」であったが、この作品は、脇役の長門有希とに焦点を当てた作りになっており、どちらかといえば、切ない話となっている。
簡単におさらいをしてみると、長門有希とは、宇宙人(情報統合思念体)が地球に送り込んだアンドロイドである。
その任務は、全宇宙をも改変する力を持つという涼宮ハルヒを観察すること。それゆえに、彼女は感情というものを装備していない。その意味で、一目、見ただけで誰にでもわかることであるが、「エヴァ」の綾波レイの系譜にある少女である。
ところが、この長門が、クリスマスを直前に控えた12月18日の朝に暴走し、それまでの世界を改変してしまうのである。
それによって、それまで北高に存在していたSOS団(世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団)は無かったということに、そして、団員の涼宮ハルヒ、古泉一樹は別の高校に通う高校生だったということに、特に古泉が所属していた1年9組はその組ごと無かったことになっているのだ。
また、その他の団員であった朝比奈ミクルや長門有希をはじめ、主人公のキョン以外の人は全て、改変後の世界を生きてきたことになってしまうのである。
そして、一人取り残されたキョンが、なんとか世界を元に戻そうとするというのが話の展開である。
面白いのは、改変した長門有希自身も、改変された後の世界の住人として、それまでの能力や記憶を保持出来ていないこと。つまり、そこではアンドロイドではなく、普通の読書好きで内気な女子高生になってしまっているということである。
それでは、何故、こんなことになってしまったのだろうか。
以前、僕は、ジャック・ラカンの現実観と「涼宮ハルヒの憂鬱」の世界観というエントリーで、「涼宮ハルヒの憂鬱」の面白さは、「ハルヒと何か」ということの解釈が多様なところにあるというようなことを述べた。
例えば、超能力者の古泉一樹にとってのハルヒは、その潜在的願望が世界を作り変えることが出来る存在であり、長門有希にとっては「生命が自律進化を遂げるための手がかり」であり、しかし、普通の人間にとってはただの変人である。そして、その「ハルヒとは何か」という疑問は、結局、宙に浮いたまま、一つの正解に収斂することなく、エンディングを迎えてしまうのだ。
つまり、ここでは、世界の真実を究明することよりも、個別の解釈によって現実に対応することのほうが優先されている。
ここに「エヴァ」と「ハルヒ」の一番大きな違いがあり、そして、この世界に対する態度こそ、90年代後半とゼロ年代、それぞれに生きる人々の姿勢とパラレルではないのか、というのがそのエントリーで僕が言いたいことであった。
そして、今回の「涼宮ハルヒの消失」は、この「ハルヒとは何か」という問いを、「長門有希とは何か」という問いにずらした作品なのである。
それは、具体的には、何故、「長門は世界を改変してしまったのか」という問いとも重なるが、長門自身は、それについて、自らに内蔵されたプログラムが想定外にエラーを蓄積したことによる異常動作である、と解釈であるとする。
また、キョンは、そのエラーこそ、「感情」というものではないかと長門に説明する。つまり、アンドロイドも長い間、この世界に暮していると人間らしい感情が芽生えていくというのだ。これは、伝統的なSF的な解釈で、例えば、1980年代のSF映画・『ブレードランナー』におけるレプリカントが有名である。
さらに彼は、彼女の暴走は、ハルヒの横暴やキョン達による過度の依存によって、疲労が溜まったことが原因ではないかと解釈する。
しかし、僕ら、視聴者から観れば、それは明らかに、長門がキョンに対して、無自覚の恋愛感情を持ってしまったがゆえに、その潜在的な願望によって、ハルヒやミクルといったライバルがキョンから遠ざけられた世界、つまり、長門がキョンを独占できる世界を現出させてしまったということがわかるのだ。
しかし、その避けられない事態が生じることを早くから察知したアンドロイドとしての長門は、少なくともキョンだけには改変前の記憶を保持させ、そしてその改変を修正出来るようにと、ヒントを改変後の世界に残した。そして、世界を元に戻すチャンスをキョンにゆだねたのである。
それは、長門の主観としては、改変後の世界と改変前の世界のどちらかをキョンに選択させるということであるが、潜在的には、キョンにハルヒを選ぶのか、自分を選ぶのかという選択を迫る仕掛けとなっていた。しかし、キョンは迷うことなく、ハルヒの居た世界を選んでしまうのだ。つまり、長門はフラレてしまうのであった。
しかし、この「涼宮ハルヒの消失」がもう一ひねり恐ろしいのは、キョンが世界を元に修正しようとする瞬間に、朝倉という、長門の無意識のダークサイドを具現したような美少女が登場し、この行為は、長門が願っていたことだということを言いながら、ナイフでキョンを刺殺しようとするところである。これは、アンドロイドとしての長門はその心の奥の奥には、キョンに対する殺意すら抱いていたということを含意している。テレビシリーズをごらんになった方は勿論ご存知かと思うが、この朝倉はかつて、キョンを殺害しようとした、普段は性格もいい優等生なのである。
ちなみに、この無垢な少女が潜在的に抱く残酷さを表現したキャラとしては、「化物語」の神原駿河を思い出す。また、「ビューティフルドリーマー」においてラムちゃんの願望が実現した世界で次々と、不要なキャラが消されていくという設定も、同様の臭いがしなくもない。
さて、話を戻すが、先ほども述べたように、今回の一連の事件の根本原因に関しては、①長門自身によるシステムエラーという解釈、②疲れというキョンの解釈、そして、③観客から見える長門のキョンに対する恋愛感情という解釈、この三つの解釈が成り立つ。そして、②は①に対して、③は②に対して、それぞれ無意識レベルを指摘する解釈をほどこしているという点において、より真実に近いようにも思える。
しかし、そのどれが正しいのかという問いは、最終的には、宙吊りにされてしまうのだ。つまり、この「涼宮ハルヒの消失」は「涼宮ハルヒの憂鬱」でハルヒの謎は謎のまま終わるのと同様に、、長門有希というの存在の謎は、明確にされないままに終わっていくのである。そして、おそらくこの宙吊り感がハルヒシリーズをして、ダラダラとした日常系の物語と説明される所以ではないかと僕は考える。
そして、この宙吊り感は、ある意味、この話の切なさにも通じているのだ。
この世界が元の世界に戻った後、病院の屋上でのシーン。今回の事件は全て自分の責任であると、冷静に分析する長門に対して、自分の非を認めるキョンが、「ゆき」と呼ぶ。
それまで、「ながと」と読んでいたキョンが、長門に対して今までとは別な感情を持ちかけたことを暗示するシーンであるが、その瞬間に空から雪(ゆき)が降って来て、その「ゆき」が、有希なのか雪なのかが曖昧なまま、キョンは有希に対して、特別な女性に対する想いではなく、特別な仲間としての想いを打ち明ける。
勿論、自覚的には感情の無い長門はキョンの話をそのまま受け取るが、僕ら視聴者には、有希の無意識の恋愛感情を知っているだけに、それはとても切ないシーンに映るのである。
おそらく、このシーンはアニメ史にも残るような名シーンとして長く人々の心の中に残っていくのではないだろうか。それほど素晴らしいシーンである。
さて、最後に、このアニメにおけるプロダクトプレイスメントの好例として「FamilyMart」との協賛(協力?)を上げておきたい。
以前より、僕は「タイガー&バニー」(「タイガー&バニーの企業タイアップをどう楽しめばいいのか」)におけるソフトバンク、富士通、DMM、牛角などとの企業タイアップ、「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」(「「あの花」に観られるプロダクトプレイスメントの自然化の流れ」)におけるCCレモン、サッポロ一番塩ラーメンの登場などに注目していたが、この「涼宮ハルヒの消失」では、上記2例以上に、「FamilyMart」が有効に使用されている。
登場シーンは、3回。まずは、冒頭の「それまでの世界」で、キョンがクリスマスの飾りつけを買うシーン、次は、「改変された後の世界」で、「FamilyMart」の前で長門がキョンに、部屋へ来ないかと誘うシーン、そして3つ目が、タイムワープした3年前の7月7日にその日がいつなのかをキョンが確認するシーン、その3シーンである。
これは、「どんな世界になっても、「FamilyMart」はあなたのソバにありますよ。」という便利さや安心感を伝えるメッセージになっている。つまり、「あなたと、コンビに、ファミリーマート」というキャッチフレーズを無言のうちに伝えているのである。
311震災の際に、評論家の森川嘉一郎氏が「24時間、日常品と蛍光灯の光に満ちたコンビニの空間は、いわば『永続する日常』の象徴だった。そのコンビニがいまや、むしろ『日常の脆さ』を露わにする空間へと変貌している。」ということをツイートして話題となったが、少なくとも「涼宮ハルヒの消失」公開時の2010年2月頃までは、まさに日常系の代表作と言われるハルヒシリーズの主題と重なる存在だったわけである。
ちなみに、2007年「エヴァ劇場版」には「ローソン」があったし、2009年「化物語」PC配信回では「ミスド」の看板が見られている。
まさむね
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