1987年劇場公開されたSFアニメ「王立宇宙軍 オネアミスの翼」を観た。
この作品も、「AKIRA」や「トトロ」と並んで、80年代を代表する作品の一つである。
監督は当時、24歳の山賀博之氏。スタッフの平均年齢も24歳という、現在では考えられないほどの若い力によって作られた「おたく」による「おたく」のためのアニメである。残念ながら興行成績はそれほどでもなかったものの、その後のSFアニメに多大な影響を与えたと言われている。
このアニメの舞台となったオネアミス王国(正式名称「オネ・アマノ・ジケイン・ミナダン王国連邦」)は架空の国。どちらかといえば、東欧や中近東近辺の雰囲気を持っている王国で、イスラム的というよりもギリシャ正教的な、あるいはアール・ヌーヴォー的な、美的雰囲気を持った場所として描かれている。
架空の国の世界観を、これほど、きっちりと描いているアニメはおそらく他にはないだろう。それほど、細部に至るまで、その描写は克明で、一つ一つのアイテムはよく練りこまれている。さすが、「おたく」の英知を結集しただけのことはある。
この作品の企画にクレジットされているオタキングこと岡田斗司夫氏は、その著書「オタクはすでに死んでいる」の中で、当時の「おたく」は、教養に溢れていたということを強調されているが、彼らの知的守備範囲は、メカ、SFにとどまらず、歴史、宗教、政治などにも及んでいることをこのアニメは証明しているようにも思う。とにかく、作画、ストーリー、ギミック等、あらゆる点において、ディテイルが素晴らしいのである。
例えば、冒頭のほうに、墓地において、戦友の死を悼む儀式を行うシーンがあるが、その墓地に並んでいる墓石にも一工夫がある。いわゆる日本の墓地でよく見られる直方体の標準型和型石碑の上に、漬物石のような楕円形の石を乗せた形なのである。おそらく、そういった形の墓は彼らのオリジナル想像物であろう。しかし、その墓には、長い歴史や宗教的意義が秘められていることを視聴者に想像させる。
つまり、アニメの画面によって、切り取られた向こう側には、あたかも、リアルな別世界が存在することを想像させるのである。
墓石一つで、このアニメの世界観が信頼に足るということを僕らに伝えてくれるではないか。
そういえば、同じガイナックスの後世作である「新世紀エヴァンゲリオン」においては、シンジの母親が眠る(実際には埋葬されていない)墓地が出てくるが、こちらはむしろ宗教や歴史といった過去からの伝統を一切排除した無機的なデザインをしており、エヴァの時代の宗教観(あるいは無宗教観)が垣間見られる。
さて、僕がこのアニメが面白いと思ったのは、上記のような完璧な世界観と同時に、主人公のシロツグが、繁華街でたまたま出会った、ある宗教のチラシを配っていた敬虔な少女に惹かれていくうちに、彼女が信仰している宗教の教義にも徐々に惹かれていくというその展開である。
その宗教は、一見、怪しげな新興宗教のようにも思えるのだが、その中身はかなり本格的に練られている。ここにも、このアニメの奥深いところがある。
例えば、その宗教においては、人類の堕落は、火を神から奪ったことから始まるという。そして、その火には呪いがかけられており、そのため、火を奪った人類は、進歩はするものの、その呪いから逃れることが出来ず、同時に不幸を背負うことを運命付けられたしまったという神話が語られる。
ちなみに、僕はこの神話の元ネタに関して、俄かに言い当てることは出来ないが、それは、天界からプロメテウスによって盗まれ、人間に与えらた火がやがて進歩と同時に不幸をもたらしたとするギリシャ神話や、イザナミが、自らが生んだ火の神(カグツチ)によって殺され、夫のイザナギがそのカグツチを殺すことによって様々な文明に関する神がそこから生まれた一方で、死んだイザナミの呪いによって、人類に不幸がもたらされたとする日本の記紀とも、どこかで通底しているようにも思われるのだ。
そして、主人公のシロツグは、最後に、初めての宇宙飛行士として大気圏外に飛び出るのであるが、その際に発する言葉は、それまで何度もリハーサルされたありふれた常套句ではない、それは、まさに祈りに満ち溢れた敬虔な言葉だったのである。
どうかこの放送を聴いている人、お願いです。
どのような方法でもかまいません。
人間がここへ到着したことに感謝の祈りをささげてください。
どうか、お許しと哀れみを。
我々の進む先に暗闇をおかないでください。
罪深い歴史のその果てにはゆるぎない一つの星を与えておいてください。
80年代に青春を送った僕らは、心の中のどこかに、世界の真実を探求したいという意識の真面目さがあったように思う。実際に、禅、真言密教、キリスト教、日蓮宗、浄土真宗、それらを起源を持つ様々な新興宗教が、それなりに若者の間に浸透していたのだ。そして、その中から出てきたものの一つが、チベット密教とヨガをルーツに持つオウム真理教であった。僕らがどこかで、オウム真理教に対して他人事とは思えない意識を持ってしまうのはそうした背景があってのことである。ちなみに、あの事件の頃、僕らの世代はオウム世代とも呼ばれていた。
おそらく、そういった時代背景があってこそ、「王立宇宙軍」の主人公・シロツグが、ある晩に、敬虔な少女をレイプしようとするが、翌朝に許され、猛省することを通して、その教えにも感化されていくというレ・ミゼラブル的な展開が、アニメのストーリーとして、ある程度、説得力を持ちえたのかもしれない。
一方で、昨今のアニメでは、例えば、「あの花」のメンマのように、かなり自然に幽霊が登場する一方で、「化物語」の戦場ヶ原ひたぎや「魔法少女まどか☆マギカ」のKYOKOのトラウマ話や、「フラクタル」における星祭りの胡散臭さを思い出していただければ顕著なように、新興宗教に対しては、危ないモノという意識が定着し、常識化してしまっている。
勿論、これはこれで当然のことのようにも思えるが、それにしても、科学技術、経済成長、政治、政府など、様々なものに対する信頼の低下とパラレルに、平成の20年間に起きた、宗教(特に新興宗教)に対する信頼の没落によって引き起こされた人々の漂泊する不安な心は、今後どこへ向うのか、現時点ではよくわからない。
しかし、僕は、そんな現代だからこそ、シロツグの口から発せられた祈りにも似た言葉に、新鮮な感動を覚えてみるのも、一周してアリではないかと思うのだ。
80年代に作られた「王立宇宙軍」を2011年に観る、その意義というのは、もしかしたら、そういった素直で純情な宗教心に、新しい感覚で触れてみることなのかもしれない。
まさむね
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