安室も浜崎も宇多田も平原もみんな戦う女戦士のようだ

平原綾香のコンサートに行ってきた。たしか新世界ツアーと銘打たれたもの。ご存知のとおり彼女の歌はクラシック原曲をベースに独自の歌詞をつけて歌ったものが多い。改めて思ったのはとにかく歌がうまいということと、その圧倒的な音楽力のセンス。

これはぼくら70年・80年代にその青春を過ごしたものからすると、明らかに圧倒されることだ。まさむねさんが「動物化するポストモダンは尖閣事件以降も有効か」のエントリー記事で取り上げていたことだけど、動ポスの認識では現在は大きな物語が終わったあとの時代に位置するということになる。大きいか小さいかはべつにして、たしかに70年代・80年代にはスター歌手たちの登場にもまだ物語(虚構のヒストリーが必要とされた)があったと思う。

おそらく山口百恵なら家庭的に不幸な少女で多感な大人びた女という物語を生きなければならなかったし、松田聖子はまさに80年代初頭という軽さとポストモダンと新人類が喧伝され始めた時期にブリッ子という物語を演じてみせていた(そして今はひとり頑張って生きてゆく大人の女という物語。もう現役という意味では松田聖子くらいしか残っていないから持続する物語としてこれはこれで僕は共感するのだが)。

でも安室奈美恵にも浜崎あゆみにも宇多田ヒカルにも平原綾香にもそういった意味での物語はない。というよりも多分必要ないし、もう時代がそんな仮構の物語を必要とはしなくなったのだと思う。何よりも彼女たちは歌唱力(いわゆるヘタな歌手はひとりもいない)が抜群だし、表現力も才能も豊かであり、みんな天才だし、言ってみれば音楽そのものだけで佇立していると思う。

その佇まいはどこか戦う女戦士(美少女の)を思わせさえする。現代版ジャンヌ・ダルクといったら大げさだろうか。どこか孤高で孤独で少女っぽくかつ近寄りがたく、でも本人はみんなへのメッセージのために歌うというみたいな・・・。

そこにあえて物語を上げるとすればそれは場末のストリートと直結しているということかもしれない。どこかの街角、そこで偶然に出会い、あるいはそこに落ちてきた落胤たち、というような無数の背景と履歴をひめながら。唯一いま物語になるとすればストリートが一夜にして生み出した歌手というようなことかもしれない。これも音楽会社の戦略なのかもしれないけど。宇多田はお父さんや母親がミュージシャンであり歌手だから二世の物語もあるかもしれないが(平原はお父さんがジャズ奏者?)、宇多田の場合お母さんの藤圭子が演歌歌手だから必ずしも踏襲の物語ではないだろう。それよりもむしろ圧倒的な天才性か。

彼女たちがこれからどこへ向かうのか、僕は知らない。でももう大きな物語を持たず、持つことができず、ひとりひとり歌っている彼女たちに声援を送りたいと思う。やはり音楽(歌)で佇もうとしているその姿勢は素晴らしいのではないかと感じるからだ。

よしむね

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