「工場夜景クルーズ」とかけて「恐竜展」ととく、そのココロは「終わりをめぐる物語」かな

この8月、9月とそれぞれランダムだったのだけど、週末に工場夜景クルーズと恐竜展に行ってきた。工場夜景クルーズは以前から興味があり、一度行きたかったもの。横浜の赤レンガ倉庫脇の桟橋から出航して京浜運河地帯を周航するコース。化学コンビナートのプラントやLNG基地、オイルターミナル、発電所などを経巡りした。

乗船している客も多く、カップルたちだけではなくて、いわゆる家族で来ている人たちもふくめて、それこそ老若男女。幅広い人気を窺わせた。たしかに夜の湾岸にうかぶ工場群は幻想的でどこか未来的・SF的な映像の乱舞に見えた。配管が剥き出しになった光景などは一番イメージに近いのはSF映画「エイリアン」のギーガーが製作した無機的な(有機と無機の混合のような異種たちがかもし出す)映像風景かあるいは塚本晋也監督の「鉄男」の風景に近いかもしれない。

一方の恐竜展は六本木ヒルズの森アーツギャラリーで開催されていたもの。こちらは子供を連れた家族中心でかなり混雑・盛況だった。恐竜には個人的に興味があり(僕が子供のころ、ご多聞に洩れず恐竜のフィギュアを集めたものだった、ゴジラとか全盛だったし)、地球最古の恐竜展というネーミングにもひかれて行ったのだ。展示自体はすこし期待はずれだったが(CGやフィギュアが多く、化石がやや少なかった印象)、まあよしとしよう。
この二つに行ってみてから後日改めて思ったことがある。それは二つの共通項だ。どちらも終わりをめぐる物語だということ。無人の工場はいってみればモノとしての終極のすがただと思う。僕らが夜景の工場群を幻想的だと思うのはそれが昼の労働や機能・実用性から離れて浮遊していっていわば最終のモノそれ自体になってしまったからだと思う。

有機をはなれて無機的なモノになってしまうと逆にすべてのものが妙に美しく幻想的にみえるから不思議だ。フロイトならばそういう無機的なものへの憧れの傾向を死への衝動というらしい。だとしたらぼくら都市生活者である現代人は多かれ少なかれ死の衝動を秘めた人たちということになるのだろうか。
それから恐竜展についてもそれがこんなに根強い人気がある(夏休みというとどこかで恐竜展のたぐいをやっているように思うのだが)のは、恐竜という、かつて最強だったものが滅びて今はいないという、これもまた終わりを秘めた物語だからではないか。そこにぼくらはある種の郷愁のようなものを感じるのではないだろうか。

しかもその物語はさらに色付けされて最強伝説の物語になっているのだ。時は三畳紀の古代、ある夏の日に幅10キロメートルの隕石がメキシコ湾、ユカタン半島沖に落下。それが引き金となって巨大な天変地異となり、恐竜が絶滅したという。驕れるもの久しからず。地上最強といわれたティラノザウルスも滅びぬ。最強のものもいつか滅びる(終局が来る)というこの手のストーリーは延々とハリウッド映画でも踏襲されていることは言うまでもない。

さてこうした企画がぼくを含めてたぶん多くの人に人気があるのはどうしてなのだろう。別に答えがあるわけじゃないのだけど、僕なりにひとつ思えるのは今の多くの日本人たちが終わりを見たがっているんじゃないだろうかということだ。あるいはなにかの終わりに自分たちの履歴を重ねたがっているのかもしれない。

失われた10年とも20年ともいわれ、平成ダラダラ不況が続き、いつ何かが始まるのか終わるのかがまったく見えなくなった時代。混迷の果てがわからなくなった時代。せめて心情的にだけでもなにかが終わるということをこの目で見届けたいのではないか。そんなことをふと思った次第。まわりはもうすっかり秋の夜長になってしまったなあ。恐竜も遠くなりにけり、か・・・・。

よしむね

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