「ザ・ウォーカー」と「アウトレイジ」に見る暴力描写、リーマン・ショック後の心性風景

最近観た二つの映画でともに暴力描写に際立つ特徴があった。何も介在させずに直接的な暴力が偶発するような世界。これもリーマン・ショック後の世相の何ほどかの影響なのかもしれないなとも思う。もちろんそれがすべてではないにしても。

ひとつはデンゼル・ワシントンが主演しているSF的な映画「ザ・ウォーカー」(原題はイーライの本)。その結末の内容自体はいかにもアメリカ流の真・善をめぐる話なのでそれほど特筆すべきものはないかもしれないが、ここで描かれている荒涼とした風景はやはり見ものだ。おそらく核戦争後(ないしはそのトラブル後)の世界が舞台と思われるのだけど、こうした風景が題材になるだけでもリーマン・ショック後の荒れた世情がいまも去っていないアメリカの現状が垣間見えるように思われる。

砂漠地帯と化した中をひたすら旅する主人公。西へ西へ。CG的な要素を除けば最近の華美なハリウッド映画に慣れた目からみるとそのストーリーからはまるでベトナム戦争後の70年代のアメリカ映画復活のように見えなくもない。時代はふたたび一周して元に戻りつつあるのかもしれない。

そしてならず者たちが割拠する世界。そこでの剥き出しの暴力。それと対峙して自らも身を守るために暴力の発露を生きざるを得ない主人公。アメリカの失業率が10%弱といってもたしか雇用を諦めている人まで加えれば実態は15%くらいとも言われているらしい。そして州のほとんどが財政破綻している現状。地方銀行のたて続けの倒産ラッシュも収まっていない。

うまく報道規制(?)が敷かれているためか、最近の日本ではあまりそうしたネガティブな報道がなされなくなっているが、「ザ・ウォーカー」などが生まれてきた背景を思うと、いまだ危機去らない荒んだ国アメリカの現状が透けて見えるようだ。そして清貧の思想ではないけど、もう一度慎ましい生活(プロテスタントの原点)へ返れというように伏流のごとくながれているその主題。これも時代の趨勢からだろうか。

もうひとつは北野武の「アウトレイジ」。こちらはもともと突然の暴力の湧き上がりにその特徴があった監督による、久々の暴力が横溢する映画となっている。みずからもう暴力映画はとらないと言っていた監督による再びの暴力への回帰。同じ監督による同様のシチュエーション設定に近いものとしては「ソナチネ」がある。
だが、「ソナチネ」と今回の「アウトレイジ」の最大の違いはその詩情性のなさにあると思う。「アウトレイジ」ではむしろそのポエジー性が意図的に排除されているように思われる。そこで描かれているヤクザ社会はまるで日本の社会構図そのままに依然にも増して出世と金に縛られた息苦しい社会として描かれているのだ。
ぼくは個人的には「ソナチネ」のほうがはるかに好きだ。たとえばヤクザ社会でアウトローとなった主人公が沖縄に逃れて行って過ごす無為の時間にはまぎれもなくポエジーがあった。だがアウトレイジではそうしたポエジーがまったく影を潜め、ひたすら金儲け(経済原理)と権力闘争に囚われている様がより辛らつに描かれている。そこには北野武の現代日本に対する批評眼として、リーマン・ショックの後いまだ落ち込んでいる景気のなかで価値転換できずにいる日本人への辛らつな想いがあるのかもしれない。

ポエジーなき日本の深まる構図。救いも無いが死すべき死も大義もない社会。だからソナチネのときのように主人公はもう自ら死を選ぼうとはしないのだ。最後は獄中で同じやくざに殺されて終わる。いずれにしても未だリーマン・ショック後の針路が定まらず、漂流を続けている社会に共通する何かとして、むき出しの暴力(多様な暴力)だけがとりあえず確かだとでも言うように、ふたつの映画があったように思う。

よしむね

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