菱紋 -武家の正統としてのプライドと信玄の威光- 武田信玄、高杉晋作、森進一...

菱紋と言えば、武田家の紋としてあまりにも有名である。
武田家はもともと、清和源氏の義光流の正統的な武家である。

菱紋には割菱系と花菱系があるが、かの武田信玄は両方とも使用したという。
武田家は、分家として、奥州の南部家、小笠原家、松前家など、全国に発展して行ったが、それらはみな菱紋系の紋を使用した。
左の画像は南部家で使用された鶴菱。
すなわち、菱紋には、武家の正統としてのプライドと武田信玄の威光が今でも輝いているのだ。
全国では11位。やはり、信玄のお膝元の山梨県では1位。他では福岡県で5位、山口県で6位が目立つくらいだ。

北畠親房。1293年3月8日 – 1354年6月1日、公家。
村上源氏庶流の北畠師重の子。『神皇正統記』の作者。後醍醐の皇子世良親王の養育をする。吉田定房・万里小路宣房と共に「後の三房」と呼ばれ、後醍醐の信任厚かった。後に、京都を逃れた後醍醐が吉野で開いた南朝に従う。家紋は割菱と笹竜胆。


大内義興。1477年 – 1529年1月29日、戦国大名。
父は周防守護で大内氏の第29代当主・大内政弘。幼名は亀童丸。室町幕府の管領代・将軍の後見人となり周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職を兼ね織田信長らが登場する前の戦国前期の事実上の天下人として君臨。家紋は大内菱。


板垣信方。1489年 – 1548年3月23日、武将。
武田氏の宿将として信虎の代から活躍。晴信が諏訪氏を滅ぼすと諏訪郡代となり諏訪衆を率いて信濃経略戦で戦功をあげた。村上義清との上田原の戦いで先陣となり緒戦で村上勢を破るが逆襲を受けて討死。画像は「風林火山」の時の千葉真一が演じる。


武野紹鴎。1502年 – 1555年12月12日、茶人。
武田一族(武田信孝の孫)で、父は信久。武田新四郎の名を持つ武士であったが、武野に改姓。堺の豪商(武具商あるいは皮革商)として財を成す一方で茶人として活躍。今井宗久、千利休、津田宗及、細川藤孝などは紹鴎の弟子。家紋は丸に割菱。


馬場信房。1515年 – 1575年6月29日、武将。
馬場氏は、清和源氏の中の摂津源氏、源頼光のひ孫の源仲政を遠祖とする源姓の氏族。武田3代に仕えた40数年の間、70回を越える戦闘に参加したが、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかったという。武田四名臣の一人。家紋は花菱。


武田信玄。1521年12月1日 – 1573年5月13日、甲斐の戦国大名。
甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の長男。越後の上杉謙信と5次にわたると言われる川中島の戦いを行いつつ信濃をほぼ平定。晩年には上洛の途上、三河で病を発し信濃で病没した。画像は菩提寺の本墓の割菱紋。


陶晴賢。1521年 – 1555年10月16日、武将。
大内氏の重臣・陶興房の次男として出生。本姓は多々良氏。家系は大内氏の庶家・右田氏の分家にあたる。初名は隆房。1551年に大内義隆を殺害。厳島の戦い毛利元就に敗北、自害。武勇に秀でた人物で「西国無双の侍大将」と呼ばれた。 家紋は大内菱。


内藤昌豊。1522年 – 1575年6月29日、武将。武田氏の家臣。
武田信虎の重臣・工藤虎豊の次男として生まれる。馬場信春、山県昌景、高坂昌信らとともに武田の4名臣の1人として数えられた。第4次川中島の戦いでは、上杉軍の背後を襲う妻女山別働隊の大将として活躍した。家紋は丸に花菱、下り藤。


三好長慶。1522年3月10日 – 1564年8月10日、武将。
管領細川晴元の家臣で、後の山城国五郡の守護代、三好元長の嫡男として生まれる。家系は清和源氏の一家系・河内源氏の傍系・甲斐源氏・小笠原氏の庶流である三好氏。信長出現以前に畿内を平定。幕府の相判衆となり実権を握る。家紋は三階菱。


安国寺恵瓊。1539年 – 1600年11月6日、禅僧・大名。
安芸武田氏の一族である武田信重の子と伝わる。毛利氏の外交僧。大友氏との和睦、秀吉への臣従する際の交渉に活躍。関ケ原の戦いでは毛利輝元を西軍の総大将として担ぎ出すことに成功。西軍首脳の1人として、六条河原にて斬首された。家紋は武田菱。


穴山信君(梅雪)。1541年 – 1582年6月21日、武将。
穴山信友の嫡男として生まれる。幼名は勝千代。穴山氏は代々武田氏と婚姻関係を結ぶ親族衆。武田姓の使用を許される名門。武田二十四将の一人。織田信長の甲斐侵攻による土壇場に至って勝頼を裏切り徳川家康を通じて信長に内応。家紋は三盛花菱。


長束正家。1562年 – 1600年11月8日、武将。
長束盛里の長男として近江国栗太郡長束村で生まれる。豊臣秀吉の奉公衆に抜擢され、太閤検地の実施に当たった。近江水口5万石を拝領し、五奉行の末席に名を連ねる。関ヶ原の戦いにて敗走する。画像は映画「のぼうの城」で長束正家を演じた平岳大。


南部利直。1576年4月13日 – 1632年10月1日、南部氏当主。
第26代当主・南部信直の長男として三戸の田子城にて出生。南部家は清和源氏の河内源氏の流れをくむ。関ヶ原の戦いでは帰国して一揆を鎮圧。このため、家康から所領を安堵され、盛岡藩の藩祖となった。家紋は割り菱、南部鶴、鶴菱を使用。


溝口宣勝。1582年 – 1628年11月24日、武将。
若狭国高浜出身。父・溝口秀勝と共に豊臣秀吉に仕える。関ヶ原の戦いに際しては上杉景勝に扇動された越後一揆を征圧。父の死により後を継いで新発田藩第2代藩主となり積極的な新田開発を行なう。家紋は溝口菱紋。画像は文京区吉祥所の墓所にて撮影。


井原西鶴。1642年 – 1693年9月9日、浄瑠璃作者、俳人。
大坂の裕福な町人の出と言われている。浮世草子と呼ばれるジャンルで名作を多く残した。主な作品『好色一代男』『日本永代蔵』『世間胸算用』等。俳句を一昼夜に2万3500句を詠んだという。画像は、生国魂神社にある井原西鶴像にある丸に花菱


新井白石。1657年3月24日 – 1725年6月29日、政治家・学者。
江戸生まれ。先祖は上野国新田郡新井村の土豪。六代将軍・家宣、七代将軍・家継の側近として正徳の治を行う。引退後は『藩翰譜』『読史余論』『西洋紀聞』『折たく柴の記』などを著す。家紋は花菱紋、竹雀紋、田の字紋(「日本姓氏事典」)


柳沢吉保。1658年12月31日 – 1714年12月8日、譜代大名。
上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として出生。家系は清和源氏の流れ。第五代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格幕府側用人として幕政を主導。家紋は四つ花菱。画像は、新宿河田町の月桂寺にある柳沢吉保の孫・信鴻の墓所の花菱紋。


清水喜助。1783年 – 1859年6月8日、実業家。
越中国婦負郡小羽村出身。農家の長男。神田鍛冶町で大工職を始める。「清水屋」(後の清水建設)の屋号で神田新石町の表通りに店を出し、丹後宮津藩本庄家、彦根藩井伊家、佐賀藩鍋島家の御用達を務める。画像は谷中霊園にて撮影。


安藤広重。1797年 – 1858年10月12日、浮世絵師。
江戸の下級武士・八代洲河岸火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として誕生。その後に浮世絵師となる。浮世絵師としては歌川広重と名乗る。風景画を主に制作し、一立齋と号を改める。主作品『東海道五十三次絵』『金沢八景』『名所江戸百景』等。


田中久重。1799年10月16日 – 1881年1月11日、発明家。
筑後国久留米の鼈甲細工師・田中弥右衛門の長男。国産では日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型、アームストロング砲を完成。また、万年自鳴鐘(重要文化財)も完成。東芝の基礎となる田中製造所を設立。画像は青山霊園にて撮影。


稲妻雷五郎。1802年 – 1877年3月29日、第7代横綱
常陸国河内郡阿波崎村(現在の茨城県稲敷市)出身。本名は、根本才助。松江藩お抱えの江戸時代に活躍した。幕内通算25場所130勝13敗14分3預1無勝負73休、勝率9割9厘、優勝相当成績12回。家紋は三階菱紋。タレントの山咲トオルは稲妻雷五郎の子孫。


渋江抽斎。1805年12月28日 – 1858年10月5日、医師・考証家。
弘前藩の侍医、渋江允成の子として出生。名は全善。字は道純。通称を道純。儒者や医師達との交流を持ち、医学・哲学・芸術分野の作品を著した。森鴎外の『渋江抽斎』によって世に知られる。家紋は花菱紋。画像は谷中・感応寺の渋江家墓所にて撮影。


緒方洪庵。1810年8月13日 – 1863年7月25日、医師、蘭学者。
備中国足守藩士・佐伯瀬左衛門惟因の三男として出生。大坂に適塾を開き福澤諭吉橋本左内大村益次郎達の人材を育成。後に幕府の要請により奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕。家紋は丸に三つ割り中陰花菱。画像は文京区・高林寺にて撮影。


雲龍久吉。1822年 – 1890年6月15日、大相撲力士、第10代横綱
本名は、塩塚久吉、佐藤喜太郎。筑後国山門郡大和村出身。柳川藩のお抱え力士。2つの横綱土俵入りのうち、不知火型の考案者といわれている。幕内通算成績は26場所127勝32敗15分5預55休、勝率.799。優勝相当成績7回。家紋は、三階菱紋。


小笠原長行。1822年6月29日 – 1891年1月25日、江戸幕府の老中。
肥前国唐津藩主・小笠原長昌の長男として出生。老中職の中に生麦事件で幕府に無断で賠償金を英国に支払い老中職を罷免される。復職するが第2次長州征討では連敗を重ね、二度目の老中罷免。戊辰戦争では函館まで戦う。画像は烏山・幸龍寺にて撮影。


勝海舟。1823年 – 1899年1月19日、幕臣、政治家。
父は旗本小普請組の勝小吉。曽祖父・銀一は越後国三島郡長鳥村の貧農の家に生まれた。幕末の動乱期、幕臣として、神戸海軍操練所の創設、江戸城無血開城などの偉業を成し遂げる。明治維新後は参議、海軍卿、枢密院顧問として活躍。家紋は丸に剣花菱。


奥野昌綱。1823年5月14日 – 1910年12月12日、牧師。
江戸幕府の下級武士である徒士竹内五郎左衛門直道の三男として、江戸に生まれた。49歳でS.R.ブラウンより洗礼を受け、日本各地で伝道旅行をした。文語訳聖書の翻訳や日本賛美歌のために大きな貢献をした。家紋は花菱紋。画像は青山霊園にて撮影。


由利公正。1829年12月6日 – 1909年4月28日、政治家、実業家。
福井藩士・三岡義知の長男として越前国足羽郡に生まれる。福井藩士としては殖産興業政策で窮乏した藩財政を再建する。五箇条の御誓文の起草にも参画。東京府知事に就任。政府に対して民撰議院設立建白書を提出する。家紋は花角紋(花菱紋)。


松前崇広。1829年12月10日 – 1866年6月9日、松前藩藩主。
蝦夷松前藩9代藩主・松前章広の六男として福山城で生まれる。第二次長州征伐に家茂の供をし陸軍兼海軍総裁となる。老中の阿部正外とともに独断で兵庫開港を決定、官位剥奪、謹慎を命ぜられる。家紋は割り菱紋。画像は文京区吉祥寺の松前家にて撮影。


木村芥舟。1830年2月27日 – 1901年12月9日、幕臣。
父は浜御殿奉行の木村喜彦。家紋は丸に松笠菱紋。老中阿部正弘によって目付に登用される。軍艦奉行咸臨丸の司令官を務めた。帰国後の木村は軍艦奉行の職務に復帰。幕府海軍の創設を目指して様々な活動を行っている。画像は青山霊園にて撮影。


岩崎弥太郎。1835年1月9日 – 1885年2月7日、実業家。
土佐国の地下浪人の子として生れる。海援隊の経理を担当。明治の動乱期に政商として巨利を得て、三菱財閥を創業。娘婿から加藤高明及び幣原喜重郎の2人の内閣総理大臣を輩出。家紋は三階菱紋。画像は染井霊園の岩崎家の墓所にて撮影。


澤宣嘉。1836年2月9日 – 1873年9月27日、公卿、政治家。
公卿・姉小路公遂の五男として出生。公卿・澤為量の婿養子となる。八月十八日の政変により朝廷から追放されて都落ち(七卿落ち)。王政復古の後は参与、九州鎮撫総督、外務卿の要職を務める。家紋は花菱紋。画像は小石川伝通院にて撮影。


西村勝三。1837年1月15日 – 1907年1月30日、実業家。
下総国佐野藩の藩邸で付家老平右衛門と楽子の3男として生まれる。幼名三平。兄は貴族院議員西村茂樹。桜組製靴の創業者。築地に伊勢勝造靴場を設立し、日本で最初に靴の製造を行う。家紋は五つ松皮菱紋。画像は品川・東海寺の墓所にて撮影。


三条実美。1837年3月13日 – 1891年2月18日、公卿、政治家。
藤原北家閑院流の嫡流で、太政大臣まで昇任できた清華家のひとつ三条家の生まれ。尊皇攘夷(尊攘)派の公家として活躍。明治国家創立期の中心人物の一人として内大臣、右大臣、太政大臣等を歴任。家紋は三条花角門。画像は護国寺の墓所にて撮影。


大倉喜八郎。1837年10月23日 – 1928年4月22日、実業家。
越後国新発田出身。鉄砲商から政商となり大倉財閥を設立。鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立。大倉商業学校(現東京経済大学)の創設者。ホテルオークラは長男の大倉喜七郎によって設立された。家紋は溝口菱紋。画像は護国寺にて撮影。


大隈重信。1838年3月11日 – 1922年1月10日、政治家、教育者。
佐賀城下会所小路に、佐賀藩士の大隈信保の長男として生まれる。上士身分。東京専門学校(現早稲田大学)の創設。1898年6月30日に薩長藩閥以外からでは初の内閣総理大臣就任。画像は護国寺の墓所の手水鉢の剣花菱を撮影。


近藤長次郎。1838年4月1日 – 1866年2月28日、志士。
高知城下の饅頭商人の息子として生まれる。後に近藤長次郎、上杉宋次郎、近藤昶次郎、梅花道人等と名乗る。坂本龍馬と共に海援隊の前身である亀山社中を設立。長州藩に小銃を売り渡している。花菱紋、五瓜に剣片喰紋、卍紋が墓所に掘られている。


永倉新八。1839年5月23日 – 1915年1月5日、新撰組二番隊組長。
本姓は長倉。池田屋事件では近藤勇、沖田総司らと共に奮戦。戊辰戦争では甲陽鎮撫隊に属して戦うが敗走。新選組の生き残りとして近藤勇、土方歳三の墓を建立。家紋は石持地抜き松皮菱。画像は寿徳寺墓所の中陰松皮菱紋。


山口尚芳。1839年6月21日 – 1894年6月12日、官僚、政治家。
佐賀藩出身。読みは、やまぐちますか。鍋島茂義に将来性を見込まれ長崎に遊学。王政復古後は東征軍に従軍。薩長連合締結に尽力。維新後は元老院議官、会計検査院院長などを歴任。家紋は剣花菱紋。画像は青山霊園にて撮影。


高杉晋作。1839年9月27日 – 1867年5月17日、長州藩士。
長門国萩城下菊屋横丁に長州藩士・高杉小忠太(家禄200石)・みちの長男として生まれる。吉田松陰の松下村塾などで学び、攘夷論を信奉する。下関戦争、長州征伐などで奇兵隊など、諸隊を率いて大活躍する。家紋は丸に割菱。


福地源一郎。1841年5月13日 – 1906年1月4日、ジャーナリスト。
長崎で医師福地苟庵の息子として誕生。1868年閏4月(旧暦)に江戸で「江湖新聞」を創刊。新政府側の怒りを買い、新聞は発禁処分となる。立憲帝政党を結成、東京日日新聞社長歌舞伎座開設等を行う。家紋は花菱紋。画像は谷中霊園にて撮影。


岡内重俊。1842年5月11日 – 1915年9月20日、司法官。
土佐国土佐郡に藩士岡内清胤の長男として出生。海援隊(画像)に入り秘書役として活躍。欧米視察に随行。帰国後、岩倉具視、伊藤博文らと共に征韓論に抗して高知の征韓論者説得に努めた。家紋は丸に亀甲に武田菱紋。画像は谷中霊園にて撮影


山口素臣。1846年6月8日 – 1904年8月7日、陸軍軍人、華族。
山口藩士・山本芳の息子として萩に生まれ山口義惟の養子となる。読みは、やまぐちもとおみ。戊辰戦争に奇兵隊嚮導役として従軍。維新後は陸軍に仕官し、佐賀の乱・西南戦争、北清事変に参戦。最終階級は陸軍大将。家紋は花菱紋。青山霊園にて撮影。


雨宮敬次郎。1846年10月24日 – 1911年1月20日、実業家。
甲斐国山梨郡牛奥村に生まれる。「天下の雨敬」「投機界の魔王」と呼ばれた。結束して商売にあたった甲州商人、いわゆる「甲州財閥」と呼ばれる集団の一人。日本製粉株式会社の前身の「泰靖社」を起業。家紋は丸に割り菱。


古沢滋。1847年12月18日- 1911年12月24日、官僚、政治家。
土佐藩士・古沢南洋の二男として出生。尊王攘夷運動に加わるが、帰郷時に投獄される。自由民権運動に加わった後、『自由新聞』主筆、外務書記官、奈良県知事、石川県知事、貴族院勅選議員などを務める。家紋は四つ花菱紋。画像は谷中霊園にて撮影。


桂太郎。1848年1月4日 – 1913年10月10日、陸軍軍人、政治家。
毛利家の庶流で重臣であった桂家の出身。第11・13・15代内閣総理大臣。元老、陸軍大将正二位大勲位功三級公爵。台湾協会学校(現拓殖大学)創立者初代校長。日露戦争で日本を勝利に導いた宰相として世界史的に見ても重要な総理大臣である。


三遊亭円遊(初代)。1850年7月7日 – 1907年11月26日、落語家。
江戸小石川小日向出身。本名は竹内金太郎。大きい鼻で知られており「鼻の圓遊」と呼ばれていた。寄席において落語の後の余興として奇妙な踊りを披露して大人気を博した。明治時代の落語界・中心人物。家紋は武田菱紋。画像は天王寺墓地にて撮影。


岸本辰雄。1851年11月13日 – 1912年4月5日、法学者、教育者。
現在の鳥取市に鳥取藩士岸本平次郎の三男として生まれる。宮城浩蔵、矢代操らとともに明治大学の前身である明治法律学校を創設、初代校長となる。法制局参事官、司法省参事官、大審院判事を歴任。家紋は丸に鉄砲松皮菱紋。画像は谷中霊園にて撮影。


緒方正規。1853年12月5日 – 1919年7月30日、衛生学・細菌学者。
肥後国河俣村出身。帝国大学医科大学の衛生学初代教授となる。ペストはネズミのノミを媒介として流行することを証明。北里柴三郎とは学説的には敵対することが多かったが私生活では交流を続けた。家紋は丸に花菱紋。画像は染井霊園にて撮影。


木越安綱。1854年4月22日 – 1932年3月26日、陸軍軍人、政治家。
金沢藩士・砲術師範、加藤忠直の二男。西南戦争、日清戦争、日露戦争に従軍。山本権兵衛内閣の陸軍大臣として軍部大臣現役武官制改正に陸軍の反対を押し切り同意。最終階級は陸軍中将。家紋は剣花菱紋。画像は青山霊園にて撮影。


武田仰天子。1854年8月19日 – 1926年4月10日、作家。
大阪府堂島に生まれる。本名は頴(えい)。東京朝日新聞に入社。小説欄を担当し、長編時代小説を30編ほど執筆した。代表作は『二代忠孝』『武蔵坊弁慶』『鎮西八郎為朝』『長屋喜兵次』等。家紋は陰割菱紋。画像は谷中・臨江寺の墓所にて撮影。


中上川彦次郎。1854年10月4日 – 1901年10月7日、実業家。
中津藩士・中上川才蔵の長男として生まれる。福澤諭吉の甥にあたる。三女はタレント・参議院議員の藤原あき。三井財閥の工業化と不良債権処理を推進し「三井中興の祖」として高く評価されている。家紋は割り菱に鐶木瓜紋。青山霊園にて撮影。


大石正巳。1855年5月26日 – 1935年7月12日、政治家。
土佐国(高知県)出身。立志社に参加し、自由民権運動に従事。進歩党結成に参加。第1次大隈重信内閣で農商務大臣として入閣。桂総裁の下で後藤新平、加藤高明等と総務5人の一人となる。家紋は割り菱紋。青山霊園の墓所にて撮影。


末岡精一。1855年6月20日 – 1894年1月22日、法学者。
山口県熊毛郡田布施町宿井出身。庄屋・末岡太兵衛景徳の次子。日本法律学校(現日本大学)の創立に参画する。行政学担当。著作に『行政裁判法講義』『行政法汎論講義』『比較国法学』がある。家紋は丸に三つ菱紋。青山霊園の墓所にて撮影。


陸羯南。1857年11月30日 – 1907年9月2日、ジャーナリスト。
弘前藩藩医・中田謙斎の長男。日刊新聞「東京電報」を創刊、翌年「日本」と改題。その主張は「日本主義」とも呼ばれる。官僚主義と藩閥政治の専制を攻撃する社説・評論は多くの読者の支持を得た。家紋は幸い菱に花菱。画像は染井霊園にて撮影。


藤井較一。1858年9月24日 – 1926年7月9日、海軍軍人。
岡山藩士・藤井広の長男として出生。日露戦争時は第二艦隊参謀長となり艦隊旗艦出雲へ。日本海海戦ではバルチック艦隊の対馬海峡通過を主張。この予測が的中し日本海海戦を勝利に導く。最終階級は海軍大将。家紋は花菱紋。画像は青山霊園にて撮影。


三好学。1862年1月4日 – 1939年5月11日、植物学者、理学博士。
美濃国岩村藩出身。生まれは岩村藩江戸藩邸。桜、菖蒲の研究、及び天然記念物保存事業に力を注いだ。日本に「記念物(デンクマール、denkmal )の概念を広めた。「景観」という言葉を生み出した。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


石原健三。1864年2月20日 – 1936年9月4日、官僚、政治家。
岡山県出身。農業・石原庫平の三男として生まれる。山梨県知事をはじめ、千葉県、高知県、静岡県、愛知県、神奈川県の各知事、北海道庁長官を歴任した。その後、宮内次官に就任した。家紋は丸に重ね菱紋。画像は多磨霊園にて撮影。


伊集院彦吉。1864年7月22日 – 1924年4月26日、外務大臣。
薩摩藩出身。妻の芳子は大久保利通の長女。イタリア特命全権大使、パリ講和会議全権委員、外務省情報部部長、関東長官を経て、第2次山本内閣外務大臣となる。勲一等旭日桐花大綬章受章。家紋は丸に三方剣花菱紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


山屋他人。1866年4月18日 – 1940年9月10日、海軍軍人。
岩手県盛岡市出身。盛岡藩士山屋勝寿の長男。円戦法を発案。軍令部次長、第二艦隊司令長官を経て第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官となる。最終階級は海軍大将皇太子妃雅子の曾祖父。家紋は三つ割剣花菱。画像は青山・長谷寺にて撮影。


北村透谷。1868年12月29日 – 1894年5月16日、文学者、詩人。
相模国足柄下郡で士族の家に生まれた。自由民権運動、キリスト教洗礼、恋愛至上主義、文学に傾倒、自殺と没落士族の典型の人生を歩む。「恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり」との名言を残す。島崎藤村らに大きな影響を与えた。家紋は菱に花菱。


杉村楚人冠。1872年8月28日 – 1945年10月3日、記者、随筆家。
和歌山県和歌山市にて出生。父は旧和歌山藩士の杉村庄太郎。朝日新聞記者として活躍。名物コラム「天声人語」の命名者。『日刊アサヒグラフ』を創刊。主著に『最近新聞紙学』『湖畔吟』『新聞の話』がある。家紋は剣花菱。八柱霊園にて撮影。


常陸山谷右エ門。1874年1月19日 – 1922年6月19日、第19代横綱
旧水戸藩士・市毛高成の長男。本名は市毛谷。幕内通算成績は150勝15敗22分2預131休、勝率.909。”角聖“の異名を冠された。引退後は年寄・出羽ノ海として後進を育成、出羽海一門の礎を築く。画像は谷中霊園にて撮影。


上田敏。1874年10月30日 – 1916年7月9日、文学者、翻訳家。
旧幕臣上田絅二の長男。一高在学中に北村透谷、島崎藤村らの文学界同人となる。『芸文』を創刊。「山のあなたの空遠く 幸 住むと人の言ふ」(ブッセ)などの訳詞は今なお広く知られている。家紋は花菱紋。画像は谷中霊園にて撮影。


松林桂月。1876年8月18日 – 1963年5月22日、日本画家。
山口県萩市出身。元の姓は伊藤、本名は篤。南画の表現に新たな世界を開拓し南画界の重鎮と言われる。近代の写生画の流行を十分に取り込みながら、漢籍・漢詩の素養に裏付けされた品格の高い作風が特色。家紋は丸に松皮菱紋。青山霊園にて撮影。


真崎甚三郎。1876年11月27日 – 1956年8月31日、陸軍軍人。
佐賀県出身。海軍少将・衆議院議員の眞崎勝次は弟。皇道派の中心人物。二・二六事件関与を否認。判決で無罪となる。戦後、A級戦犯として逮捕命令が発令され、巣鴨プリズンに入所する。家紋は丸に剣花菱紋。画像は多磨霊園の真崎家墓所にて撮影。


波多野精一。1877年7月21日 – 1950年1月17日、哲学者。
長野県筑摩郡松本町に生まれる。東京帝大にて、ケーベル博士の指導のもとで、近世哲学を研究。西田幾多郎とならぶ京都学派の立役者。カントの『実践理性批判』の翻訳を行う。家紋は剣花菱紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


小林躋造。1877年10月1日 – 1962年7月4日、海軍軍人。
広島市台屋町出身。旧安芸広島藩浅野家家臣・早川亀太郎の3男。読みは、こばやしせいぞう。最終階級は海軍大将。予備役編入後、台湾総督、貴族院勅選議員、国務大臣などを歴任。家紋は丸に割り菱紋。画像は多磨霊園にて撮影。


石山賢吉。1882年1月2日 ‐ 1964年7月23日、実業家。
新潟県西蒲原郡曽根村出身。『三田商業界』『実業之世界』などの記者を経て、経済誌『ダイヤモンド』を創刊。ダイヤモンド社の経営に注ぎ、社長・会長を務めた。後に衆議院議員となる。家紋は丸に花菱紋。画像は寛永寺第一霊園の墓所にて撮影。


郷古潔。1882年11月13日 – 1961年4月28日、財界人。
岩手県水沢市不断町出身。三菱財閥の各社で勤務後、三菱重工の社長となる。東條英機の内閣顧問となり戦時体制の戦略的指導にあたるが、三菱の総帥岩崎小彌太から社長を解任される。戦後はA級戦犯として逮捕される。家紋は丸に剣花菱紋。


和田三造。1883年3月3日 – 1967年8月22日、洋画家。
兵庫県朝来郡生野町(現・朝来市)に生まれる。『地獄門』で色彩デザイン、衣裳デザインを担当し、この作品で翌1954年の第26回アカデミー賞で衣裳デザイン賞を受賞。代表作は『南風』。家紋は丸に花菱紋。青山霊園墓所にて撮影。


宮地嘉六。1884年6月11日 – 1958年4月10日、小説家。
佐賀市出身。貧困のため仕立て屋の丁稚となる。労働争議が続いた呉海軍工廠時代にはストライキの首謀者として広島監獄に拘禁された。代表作は『煤煙の臭ひ』『或る職工の手記』。プロレタリア文学運動史の前史、草分け的存在。画像は賢崇寺にて撮影。


宇野円空。1885年11月27日 -1949年1月1日、宗教民族学者。
京都出身。姉崎正治に学び、宗教民族学の分野を開拓。母校東京帝大の助教授、東洋文化研究所教授となる。学位論文「マライシアに於ける稲米儀礼」で恩賜賞を受賞。主著「宗教学」「宗教民族学」家紋は武田菱紋。本願寺和田堀廟所の墓所にて撮影。


尾崎放哉。1885年1月20日 – 1926年4月7日、俳人。
現在の鳥取県邑美郡に士族で鳥取地方裁判所の書記官・尾崎信三の次男として生まれる。季語を含めない自由律俳句の代表的俳人として種田山頭火と並び称される。代表作は「咳をしても一人」「墓の裏に廻る」など。家紋は五つ松皮菱。


北原白秋。1885年1月25日 – 1942年11月2日、詩人、童謡作家。
熊本の南関に生まれ、まもなく福岡の柳川にある家に帰る。本名は北原 隆吉。代表作は『邪宗門』 『落葉松』『城ヶ島の雨』など。『待ちぼうけ』『ペチカ』『あわて床屋』などの童謡が有名。家紋は丸に花菱紋。柳川の北原白秋記念館にて確認。


小笠原三九郎。1885年4月5日 – 1967年12月13日、政治家。
愛知県幡豆郡室場村(西尾市)花蔵寺町の農家に生まれる。実業家としては極洋捕鯨社長、日本貿易振興会会長等を務める。商工大臣・農林大臣・通商産業大臣・大蔵大臣を歴任。家紋は丸に三階菱。画像は護国寺の墓所にて撮影。


武者小路実篤。1885年5月12日 – 1976年4月9日、小説家。
東京府東京市麹町区に出生。武者小路家の始祖は右大臣三条西実条の次男公種。志賀直哉、有島武郎らと文学雑誌『白樺』を創刊。代表作は『人間万歳』『友情』『真理先生』など。家紋は三条花角。画像は中央霊園にて撮影。


市河三喜。1886年2月18日 – 1970年3月17日、英語学者。
東京生まれ。江戸時代の書家・市河米庵の子孫。日本の英語学の祖と言われ、新しい英語の教授法の普及にも力を注いだ。英語学の新人賞として市河三喜賞が設けられている。家紋は丸に剣花菱紋。画像は多磨霊園にて撮影。


緒方竹虎。1888年1月30日 – 1956年1月28日、政治家。
山形県書記官・緒方道平の三男として山形市にて出生。祖父・大戸郁蔵が緒方洪庵と義兄弟の盟を結び緒方姓を与えられたという。自由党総裁、国務大臣、内閣官房長官、副総理等を歴任。家紋も洪庵と同じ三つ割り中陰花菱。画像は青山霊園にて撮影。


大野伴睦。1890年9月20日 – 1964年5月29日、政治家。
岐阜県山県郡美山町出身。衆議院議長、自民党副総裁。地元岐阜県に東海道新幹線岐阜羽島駅を誘致。力道山を可愛がり日本プロレスのコミッショナーを務める。家紋は丸に三階菱紋。画像は池上本門寺にて撮影。


宇野千代。1897年11月28日 – 1996年6月10日、小説家。
山口県玖珂郡出身。尾崎士郎、東郷青児など多くの有名芸術家との結婚遍歴とその破局は波瀾に富み生涯を賑わせた。代表作は『おはん』『色ざんげ』など。日本芸術院賞受賞。家紋画像は、文学者掃苔録図書館より。家紋は大内菱紋。


式場隆三郎。1898年7月2日 – 1965年11月21日、精神科医。
新潟県中蒲原郡出身。山下清の活動を物心両面から支え、彼を世間に広く紹介したり、東京深川にあった怪建築「二笑亭」の記録を遺した。また、三島由紀夫が自らの同性愛的な性的指向を告白した式場との書簡が残されている。家紋は花菱紋。


東海林太郎。1898年12月11日 – 1972年10月4日、歌手。
秋田県秋田市台所町二番地に出生。ロイド眼鏡・燕尾服を着用し直立不動の姿勢で歌う戦前を代表する歌手。戦後は不遇の時代が続いた。代表ヒット曲は「赤城の子守唄」「愛国行進曲」「麦と兵隊」。家紋はジャケット写真より丸に花菱紋と判断。


広沢虎造 (2代目)。1899年5月18日 – 1964年12月29日、浪曲師。
東京府東京市芝区出身。本名・山田信一。旧姓は金田。広沢虎吉に弟子入り。二代目広沢虎造を襲名。吉本興業が中国大陸に派遣した軍隊慰問団・わらわし隊にも参加。清水次郎長伝を特異とした『虎造節』で、戦前から戦後にかけて一世を風靡した。


内田栄一。1901年3月25日 – 1985年7月27日、歌手。
京都府出身。レーヴエに師事。大正のはじめヴォーカルフォア合唱団を主宰。「トスカ」のアンジェロッティ以来、藤原歌劇団で活躍。戦中は、「月月火水木金金」が大ヒットした。家紋は割り菱紋。画像は多磨霊園にて撮影。


久保寺逸彦。1902年9月10日 – 1971年11月5日、言語学者。
北海道紋別郡雄武町生まれ。アイヌ文化およびアイヌ語の研究者。駒澤大学文学部教授。知里真志保達と交友を持ち、ユーカラなどの口承文芸や宗教儀礼の記録に多大な貢献を残した。家紋は丸に花菱紋。画像は多磨霊園にて撮影。


草野心平。1903年5月12日 – 1988年11月12日、詩人。
福島県上小川村出身。蛙にこだわる詩を多数創作し、俗に「蛙の詩人」と呼ばれた。「蛙の詩」によって、第1回読売文学賞を受賞。代表作は『第百階級』『小動物抄』『第四の蛙』『定本 蛙』など。家紋は花菱紋。草野心平記念館にて確認。


江戸英雄。1903年7月17日 – 1997年11月13日、実業家。
茨城県筑波郡作岡村(現つくば市)に生まれる。長女の江戸京子は小澤征爾の元妻。三井不動産の復興に尽力し、社長、会長職を務め、東京ディズニーランド、筑波研究学園都市の建設にも力を注いだ。家紋は丸に三階菱紋。青山霊園の墓所にて撮影。


田辺茂一。1905年2月12日 – 1981年12月11日、出版事業家。
東京・新宿にて、紀州備長炭を商う「紀伊國屋」の跡取りとして生まれる。株式会社紀伊國屋書店を創業。同社代表取締役社長に就任。紀伊國屋ビルに紀伊國屋ホールを設けたり、紀伊國屋演劇賞を創設するなど、文化事業に力を注いだ。家紋は丸に花菱紋。


川田晴久。1907年3月15日 – 1957年6月21日、歌手。
東京都本郷根津の印刷所の家に生れる。伝説のボーイズ第一号「あきれたぼういず」を結成。多くの弟子を育てた。また、美空ひばりの師匠格としても知られる。代表曲は「浪曲ダイナ」「バナナ物語」等。家紋は丸に松皮菱。画像は多磨霊園にて撮影。


湯川秀樹。1907年1月23日 – 1981年9月8日、理論物理学者。
東京府東京市麻布区市兵衛町に地質学者・小川琢治の三男として生れる。1949年にノーベル物理学賞を受賞した。これは日本人として初めてのノーベル賞受賞。核兵器廃絶を訴える平和運動にも積極的に携わった。家紋は横木瓜に割菱。


児玉誉士夫。1911年2月18日 – 1984年1月17日、右翼運動家。
福島県安達郡本宮町出身。ロッキード事件の際に代理人としてその名が広く知れ渡る。スカルノ大統領の夜の相手としてホステス根元七保子(デヴィ夫人)を送り込む。政財界の黒幕と呼ばれた。家紋は丸に松皮菱紋。画像は池上本門寺にて撮影。


武田泰淳。1912年2月12日 – 1976年10月5日、小説家。
東京市本郷区にある浄土宗の寺に大島泰信の三男として生まれる。出生名は覚。父の師にあたる武田氏に養子に入り武田泰淳と名乗る。代表作は『司馬遷』『ひかりごけ』『富士』等。家紋は武田菱。画像は中目黒の長泉院の墓所にて撮影。


バッキー白片。1912年4月16日 – 1994年9月13日、歌手。
日系2世の子供としてホノルルに誕生。本名は、白片力。バッキー白片とアロハ・ハワイアンズのリーダー。石原裕次郎の「俺はお前に弱いんだ」「ささやきのタンゴ」「さすらい」「白樺の湖」などを作曲。和田弘とマヒナスターズなどの後進を育成。


深沢七郎。1914年1月29日 – 1987年8月18日、小説家。
山梨県東八代郡石和町出身。『楢山節考』が中央公論第一回新人賞を受賞。三島由紀夫が激賞しベストセラーとなる。その他の代表作は『みちのくの人形たち』『笛吹川』等。家紋画像は、文学者掃苔録図書館より。家紋は丸に半花菱紋。


笠置シヅ子。1914年8月25日 – 1985年3月30日、歌手、俳優。
香川県大川郡相生村出身。本名は亀井静子。戦後、「ブギの女王」として一世を風靡。黒澤明監督の映画『醉いどれ天使』ではキャバレーの歌手を演じる。代表作は『東京ブギウギ』『買物ブギー』。家紋は武田菱。画像は本願寺・和田堀廟所にて撮影。


向坊隆。1917年3月24日 – 2002年7月4日、応用化学者。
大日本帝国関東州大連出身。専門は電気化学で金属の腐蝕、原子炉材料を研究。東京大学総長を務める。文化功労者。主著『エネルギー問題についての基礎知識』『学長の平日と休日』等。家紋は丸に陰陽重ね菱。画像は多磨霊園にて撮影。


由利徹。1921年5月13日 – 1999年5月20日、喜劇俳優。
宮城県石巻市出身。本名:奥田清治(おくだ きよはる)。南利明、八波むと志とともに『脱線トリオ』を結成。代表的一発ギャグは、「オシャ、マンベ」「カックン」。代表出演作『トラック野郎 シリーズ』『ムー一族』『寺内貫太郎一家』等


北の洋昇。1923年2月1日 – 2002年1月8日、元大相撲力士。
北海道網走郡網走町北浜出身。本名は緒方昇。右おっつけで一気に前に出る相撲は「白い稲妻」という異名をとる。最高位は関脇。幕内成績:368勝388敗24休 勝率.487。引退後は年寄・武隈を襲名した。家紋は丸に花菱紋。墓所は両国・回向院。


林家三平。1925年11月30日 – 1980年9月20日、落語家。
7代目林家正蔵の実子で長男。テレビが生んだ最初のお笑いブーム「(第一次)演芸ブーム」の火付け役かつ中心的存在。また「爆笑王」の異名を得る。家紋は花菱。息子の林家正蔵、2代目林家三平、林家こん平、林家たい平も同紋。泰葉の父。


木村庄之助(27代)。1925年12月3日 – 、大相撲の立行司。
岩手県盛岡市出身。本名は熊谷宗吉。立浪部屋所属。51歳の若さで27代庄之助に昇格、在位期間は1977年11月~1990年11月。木村庄之助の在位期間79場所は行司停年制実施以降では最長で庄之助として通算1185番を裁いた。画像は春秋苑にて撮影。


大内山平吉。1926年6月19日 – 1985年11月1日、大相撲の力士。
茨城県那珂郡平磯町に漁師の長男として生まれる。本名:大内平吉。身長203cm、体重153kgの巨漢力士で最高位は大関。幕内通算成績:304勝256敗53休 勝率.543。優勝1回。引退後は年寄錣山を襲名。家紋は丸に松皮紋。画像は八柱霊園にて撮影。


勝沼信彦。1926年7月7日 – 、医学者。医学博士。
長崎県長崎市出身。伯父は医学者で、脳波を提唱した勝沼精蔵。専門は生化学、酵素学。徳島大学医学部学部長を経て、2000年には徳島文理大学の学長に就任した。剣道教士七段の腕前を持つ。家紋は丸に花菱紋。画像は染井霊園にて撮影。


浅利慶太。1933年3月16日 – 、演出家、実業家。
大叔父は二代目市川左團次。劇団四季創設者の一人で芸術総監督。『キャッツ』初演において日本で初めて無期限ロングラン公演を成功。長野オリンピック開会式の総合プロデューサーを担当。家紋は三階菱紋。画像は谷中霊園の浅利の実家の墓所より。


内海好江。1936年2月23日 – 1997年10月6日、漫才師。
両親は夫婦漫才師の荒川小芳、林家染寿。1945年にデビュー。女剣劇や父娘漫才を経て、1950年に内海桂子とコンビ結成。ウッチャンナンチャンの師匠としても知られている。家紋は、内海家の丸に出鉄砲松皮菱(幸龍寺の墓所で撮影)を使用か。


北島三郎。1936年10月4日 -、演歌歌手、作詞家、作曲家。
北海道上磯郡知内村出身。本名は大野穣。山本譲二、小金沢昇司など、北島を慕う演歌歌手によって北島ファミリーが形成。代表曲は、『函館の女』『まつり』『与作』等。家紋の丸に花菱は、北島三郎記念館の天井の電灯に描かれている。


松本幸四郎(9代目)。1942年8月19日 -、俳優、歌舞伎役者。
八代目松本幸四郎の長男。本名は藤間昭暁。1981年歌舞伎座にて九代目松本幸四郎を襲名。代表出演作は「黄金の日日」「王様のレストラン」、ミュージカル「ラ・マンチャの男」「屋根の上のバイオリン弾き」等。家紋は四つ花菱。藤間家は藤輪に花菱紋。


森進一。1947年11月18日 -、歌手。
山梨県甲府市生まれ。本名は森内一寛。母子家庭で育ち、各地を転々とする。『港町ブルース』でレコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。代表曲は『襟裳岬』『おふくろさん』『冬のリビエラ』等。家紋は丸に剣花菱紋。画像は春秋苑の生前墓にて撮影。


勝野洋。1949年7月27日 -、俳優。
熊本県阿蘇郡小国町出身。妻はキャシー中島。テレビドラマ『太陽にほえろ!』において”テキサス刑事”役に抜擢され一躍人気者となる。代表出演作は『俺たちの朝』『姿三四郎』。家紋は五瓜に三階菱紋。林泉寺の勝野家の墓所にて撮影。


ジャンボ鶴田。1951年3月25日 – 2000年5月13日、プロレスラー。
山梨県東山梨郡牧丘町出身。本名は鶴田友美。全日本プロレスのエースとして、三冠ヘビー級王座の初代王者、日本人初のAWA世界ヘビー級王者(第30代)となる。得意技はテーズ直伝のバックドロップ。家紋は蔓花菱。墓所は慶徳寺。


久島海啓太。1965年8月6日 – 2012年2月13日、元大相撲力士。
和歌山県新宮市出身。出羽海部屋所属。最高位は東前頭筆頭。現在は、年寄・田子ノ浦。3年連続で高校横綱、しかも3年生の時には高校生では史上初となるアマチュア横綱まで獲得。史上最多の28個のタイトルを獲得した。家紋は丸に花菱紋。

緒方洪庵、陸羯南の紋に関しては、「家紋の真実」を主宰されている日本家紋研究会副会長の高澤等先生にご教授頂きました。

まさむね



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